週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

泥棒容疑も かけられた 絵師の雪旦

 天保5年(1834)年に出版された『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』は画期的な江戸のガイドブックとしてベストセラーになった。辛口の評論家でもあった滝沢馬琴(たきざわばきん)が「その秘密は挿絵にある。江戸まで旅のできない婦女子にとってこれほど楽しめるものはない」と絶賛した。

 『江戸名所図会』の平村(たいらむら)(いまの日野市南平)の項に「平村平惟盛(たいらこれもり)古墳」の挿絵がある。「文永8年(1271)」と刻まれた板碑を僧体の男が熱心にスケッチしている。これが絵師の長谷川雪旦(はせがわせつたん)の自画像らしい。かたわらでこれを見守る旅装の男も描かれていて、著者の斎藤幸孝(さいとうゆきたか)だという。

 『江戸名所図会』は、都心の雉子町(きじちょう)(千代田区神田小川町あたり)で名主を務める斎藤幸雄、幸孝、幸成の3代が書き継いで完成した労作だった。その挿絵のなかに幸孝と雪旦が連れ立って現地取材をしている姿が時折出てくるのが興味深い。

 江戸研究家の三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)が「捕物の話」のなかで、雪旦の仕事振りを伝える面白いエピソードを残している。

 江戸時代の後期、水道橋(現・文京区)際に守山という鰻の料理屋があった。ある晩、そこに盗賊が入った。調べると、前の日に僧体の男が独酌で御茶ノ水を眺めながら長いこと絵を描いていた。盗みに入る下調べの疑いもある。これが雪旦で、気の早い目明しが雪旦の知人である国学者の前田夏蔭(まえだなつかげ)に様子を聞いた。

 奉行所の役人にも弟子の多い夏蔭は「あの雪旦を知らんのか」と叱りつけたので目明しは恐縮して引き下がったというのである。どうやら、その風体と夢中な仕事振りが誤解を招きやすかったようだ。

 天保14年(1843)に他界した雪旦は浅草の幸龍寺に葬られた。幸龍寺は関東大震災で被災、昭和2年に烏山寺町の世田谷区北烏山5-8-1に移転した。

(掲載号:02月17日号)