週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
役目を 終えた 三田用水
かつての川が多く緑道となっている目黒区内で、ほとんど痕跡をとどめなくなっている水路がある。最初は上水、つまり飲料水として使われ、後に農業用水、近代になってからは工業用水としても利用された三田用水である。
「元は三田上水と唱へ、下北澤村にて玉川上水を分流し、三田芝の邉に掛りし水道なり」
『新編武蔵風土記稿』の「三田用水」の記述で、現在の駒場付近で目黒区内に入った流れは渋谷区内を通って再び目黒区内の高台地区に入って三田、芝方面に達していた。延長7.8km、寛文4年(1664)、徳川4代将軍家綱のときに通水した。
その上水が享保7年(1722)、8代吉宗の時代に廃止となった。廃止の理由は不明だが、『武江年表』の享保7年の項に「十月、千川上水、青山三田の上水を止めらる」とあり、幕府は老朽化してあまり効率的でない上水を廃止したのかもしれない。
しかし、三田上水の廃止で困ったのは、その余水を農業用水として利用していた沿岸の人たちだった。上・中・下目黒村を始めとする十数村は代官の伊那半左衛門に農業用の水として流して欲しいと願い出た。
幕府も農民の願いを無視できず、水路を改修して再び通水した。廃止から2年、または3年後のことで、以来利用者は水利組合を作って水路を大切に守ってきた。明治末から大正初めにかけては製粉、精米の水車を動かす他、工場の機械の動力としても使われたという。
しかし農村の市街化で農業用水の需要も減少し、わずかにビール工場の雑用水として使われるだけになり、水路もほとんど暗渠となった。やがてその雑用水の役割も終わり、昭和50年、通水が止められ三田用水は約300年の歴史を閉じた。
(掲載号:03月10日号)
