週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

偉大な野次馬 大宅壮一と 八幡山

 評論家の大宅壮一(おおやそういち)は、昭和の戦前戦後を通じてマスコミ界で活躍し、「偉大な野次馬」と呼ばれた。同業で門下の青地晨(あおちしん)は『大宅壮一語録』のなかでこう書いている。

 <駅弁大学、一億総白痴化、恐妻などは大宅造語の傑作だが、このほか太陽族、クチコミなど、それぞれ時代相を的確につかみだした造語がすくなくない。これらの言葉は、たくさんの人の口から口へ伝えられ、大衆の言葉としていまもわれわれのなかに生きている>

 その大宅が太平洋戦争末期の昭和19年、時代の波に抗しきれず、「文筆的断食」と称して評論活動を中絶している。生家は大阪府富田(とんだ)(現・高槻市)の大きな醤油醸造業。

 家運が傾いて、少年時代から力仕事で一家を支えたというだけに、世田谷区八幡山(はちまんやま)の自宅で始めたのが農業だった。

 評論家の大宅映子は三女だが、『父とわたし』と題する文で、<この仕事、近所の本職が音(ね)を上げる位徹底して、米麦はもちろん、各種野菜、果物、それに養蜂、養鶏、黒ブタにいたるまでの本式のものであった>と回想している。手伝いに来た近所の農家や知人がタバコ休みもなしに働かされるので寄りつかなくなったと伝えられている。

 その収穫は戦時中の自給自足だけでなく、食糧難の旧友たちに届けられたという。戦後の昭和23年から大宅は評論活動を再開するが、手元に収集した貴重な書籍・雑誌などの資料を友人や門下の作家たちに惜しみなく自由に使わせている。

 大宅が昭和45年、70歳で永眠したあと、蔵書の単行本3万冊、雑誌17万冊が残された。
「蔵書はマスコミ人が共用できるものに」という大宅の遺志に基づいて、翌46年に大宅壮一文庫(世田谷区八幡山3-10-20)が一般公開された。

(掲載号:03月17日号)