週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

今は昔 目黒の 筍めし

 練馬大根、小松菜、谷中生姜など、東京もかつては各所で名物の野菜を産出していた。目黒も例外ではなく、昔は筍の名産地だった。

 寛政元年(1789)名字帯刀を許されていた築地鉄砲洲の回船問屋 山路(やまじ)次郎兵衛が鉢植え用として薩摩屋敷から孟宗竹を数株手に入れ、戸越村 後地(うしろじ)(現品川区小山1丁目)の別邸内で栽培した。やがて見事な筍が採れるようになり、次郎兵衛は付近の農家にその栽培を薦めた。

 ほどなく、筍の生産は今の品川区西部から目黒区にかけての農村で広く行われるようになった。特に目黒では、地味が孟宗竹の生育に適していた碑文谷地区を中心に盛んに栽培された。

 明治中期の東京の事物を記した平出(こう)二郎の『東京風俗志』に「筍は孟宗多くして、目黒の産著るく」と記し「目黒の筍飯・栗飯、不忍の蓮葉飯、割烹店の調理品として名あり」ともある。『東京年中行事』の「五月暦」の項にも「四月よりこの月へかけて目黒の筍飯」と記されている。

 つまり、目黒では特産品の筍を炊き込んだ筍飯が料理屋の売り物にもなっていた。その料理屋は目黒不動門前に多く店を構えていた。

 しかし、それは大正時代までのことだった。新聞記者生活50年、劇評家としても名を馳せ、昭和50年に89歳の天寿を全うした秋山安三郎は『下町今昔』の「竹の子めし」に「東京人は筍飯というと『目黒に行こう』とハシャグほどだった」が「昭和になってすっかり廃れた」と記し、次のように書いている。

 「その6、7年頃までは境内に只一軒残っていた掛茶屋の柱に『名物、筍めしあり』という木札が下がっていて、罐詰の筍で筍めしを売っているのが名残りになっていた」

 今は、料理屋も筍飯も見られなくなった。

(掲載号:03月24日号)