週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

森巌寺 葵の御紋 淡島さま

 結城秀康(ゆうきひでやす)は、天正二年(一五七四)徳川家康の次男に生まれた。幼名を於義丸(およしまる)といい、十歳のとき、当時天下を握っていた豊臣秀吉の養子となり、秀康と名乗った。家康の三男で、のちに二代将軍となった秀忠も秀吉から秀の一字をもらっている。主君の名から一字を拝領するのは、このころの臣従の重要な表現の一つで、豊臣家を倒して将軍になった家康にとっては不愉快な記憶だったことだろう。

 ついでながら、徳川十五代の将軍のうち、五代綱吉は兄の家綱(四代将軍)から、八代吉宗は綱吉から、十五代慶喜(よしのぶ)家慶(いえよし)(十二代将軍)から一字を頂いたものである。

 結城秀康は戦国武将としての素質を備えていたようで、幼時から秀吉に可愛がられたが、豊臣家の二代目には嫡子の秀頼がいたから、天正十八年に下総(いま茨城県)の名門、結城氏の跡を継いだ。秀吉の死後は父家康の麾下の勇将として実力を発揮している。

 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは、大坂に向かった家康の留守を守り、関東で会津の上杉景勝の大軍と睨み合って一歩も引かず、勝利の一因となった。このころ、宇都宮(栃木県)の陣営内で糧米が不足し、係の役人が非常時用の米を出し惜しんだ。秀康は「余のために命を惜しまぬ侍に、今こそ非常時」と言って、残りの米を出させ、皆で分け合ったので、陣中いずれも感奮したという挿話が、 岡谷繁実(おかのやしげざね)『名将言行録』(岩波文庫)に紹介されている。

 秀康は越前福井(福井県)六十八万石の領主になったが、慶長十二年わずか三十四歳で世を去った。法名は森巌道慰運正浄光院。翌年、その位牌所として建てられたのが森巌寺(しんがんじ)(世田谷区代沢三−二七−一)で、屋根瓦などに葵の御紋が光っている。境内の淡島神社は紀州から勧請され、特効のお灸で名高い。

(掲載号:05月26日号)