週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
森巌寺 葵の御紋 淡島さま
ついでながら、徳川十五代の将軍のうち、五代綱吉は兄の家綱(四代将軍)から、八代吉宗は綱吉から、十五代
結城秀康は戦国武将としての素質を備えていたようで、幼時から秀吉に可愛がられたが、豊臣家の二代目には嫡子の秀頼がいたから、天正十八年に下総(いま茨城県)の名門、結城氏の跡を継いだ。秀吉の死後は父家康の麾下の勇将として実力を発揮している。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは、大坂に向かった家康の留守を守り、関東で会津の上杉景勝の大軍と睨み合って一歩も引かず、勝利の一因となった。このころ、宇都宮(栃木県)の陣営内で糧米が不足し、係の役人が非常時用の米を出し惜しんだ。秀康は「余のために命を惜しまぬ侍に、今こそ非常時」と言って、残りの米を出させ、皆で分け合ったので、陣中いずれも感奮したという挿話が、
秀康は越前福井(福井県)六十八万石の領主になったが、慶長十二年わずか三十四歳で世を去った。法名は森巌道慰運正浄光院。翌年、その位牌所として建てられたのが
(掲載号:05月26日号)
