週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
分教場の 青年教師 坂口安吾
大正十四年四月、東京の
安吾は『風と光と二十の私と』のなかで回想している。
〈私が代用教員をしていたところは、世田谷の下北沢というところで、その頃は荏原郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。(中略)教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない〉
安吾は新潟の名家の生まれである。江戸時代からの富豪で、父は有名な代議士だった。しかし、祖父が投機に失敗し、大正十二年に父の死んだあとには借財が重なっていた。そのため教職に就いたのだが、一年で辞めて東洋大学に入学している。幼時から成績抜群、ただし腕白で気まぐれというのが安吾の持ち味だった。
それだけに、たった一年だけの安吾先生を懐かしく思い出す腕白坊主が多かったようである。安吾の思い出も爽やかで優しさに満ちている。
〈本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いいものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている〉
作品の中の安吾先生も地元の有力者や主任教師の思惑をはねのけて、金八先生さながらの活躍ぶりである。
代沢の地名は、従来の
(掲載号:06月09日号)
