週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

伊能忠敬 高橋至時 高橋景保

 高齢化時代の現代、わが国初の全国実測地図を作製した伊能忠敬は、中高年の鑑としても評価を高めている。婿入り先の下総佐原の酒造業伊能家を隆盛に導き、名主としても名声を博した彼が、隠居して幕府天文方高橋至時(よしとき)に入門したのは寛政七年(一七九五)数え五十一才のときだった。

 西洋暦法や測量術を学んだ忠敬は、師の尽力で幕府の許可を受けて寛政十二年、奥州街道と蝦夷地南東海岸を百八十日かけて測量した。これが幕府に認められ、以後幕府で全国を測量して地図を作製した。その集大成の「大日本沿海輿地全図」が完成したのは、彼の死去三年後の文政四年(一八二一)だった。

 この忠敬の師、高橋至時は大坂定番同心だったが、天文暦学家として江戸へ召しだされ幕府天文方となり、寛政暦を完成させた他、各種の観測機器を作製するなどの功績を上げた。しかし、過労がたたって文化元年(一八〇四)四十一歳で亡くなった。

 至時の嫡男・ 景保(かげやす)は、父の死によって二十歳で天文方に就任した。父の弟子伊能忠敬の測量事業の監督をする一方、世界地図作製に取りかかるなど多忙を極めた。

 順調に出世して天文方筆頭に進んだが、文政十一年、江戸参府のドイツ人医師で博物学者のシーボルトに国禁の日本地図を贈った罪に問われて逮捕投獄され、翌年獄死した。四十五歳だった。いわゆるシーボルト事件である。

 伊能忠敬と高橋父子の三人は、『江戸名所図会』を刊行した斉藤月岑(げっしん)の菩提寺・法善寺から程近い台東区東上野六−十九−二の源空寺墓地に眠っている。

 ここには文化文政時代の江戸画壇の重鎮・谷 文晁(ぶんちょう)(一七六三−一八四〇)の墓もあるが、もう一人の江戸の有名人が葬られている。それは改めて紹介する。

(掲載号:06月16日号)