週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

長兵衛も 眠る 源空寺

 「時候も丁度木の芽時、茂る樹木に行く道も (くら)き旅路の十万億土、道を急いで早く行け」

「おゝ先へ行くとも一筋道、六郷ならぬ六道の札の辻から真直ぐに三途の川の川端に、死出の山駕籠こさえさせ、こなたの来るのを待っているから、早くおれを殺さっせえ」

 所は旗本水野十郎左衛門の屋敷の風呂場。槍を振りかざす水野に対し、かねて覚悟の町奴の頭・幡随院長兵衛は湯帷子(かたびら)姿のままひしゃくの柄を手に身構える。

 河竹黙阿弥作の『極附幡随長兵衛』、通称「湯殿の長兵衛」の大詰めの名場面である。この芝居に代表されるように長兵衛は歌舞伎の人気者で、この他にも長兵衛が活躍する芝居は少なくない。

 通説では、長兵衛たちの町奴は旗本奴の白柄(しらつか)組と対立し彼は水野のだまし討ちに遭ったとされている。しかし、長兵衛・水野の関係は諸説さまざまの上、長兵衛の没年も一定していない。

 長兵衛の方が悪いとしているのは、『徳川実紀』である。明暦三年(一六五七)七月二十九日の項で、「此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに、侠客幡随長兵衛といへるもの來り、強て花街に誘引せんとす」という書き出しで、これを断った水野を長兵衛が罵倒したので、水野が長兵衛を討ったと記している。

 『武江年表』慶安三年(一六五〇)の項には「四月十三日、侠客幡随院長兵衛死す」とあり、「其の伝、人口に膾炙(かいしゃ)すといへども、紛々として定かならず」と記されている。さらに「墳墓は今も浅草源空寺にあり。歌舞妓もの年回を弔へり」とある。

 確かなのは、長兵衛が侠客の大立者だったということくらいらしい。浅草源空寺は伊能忠敬、高橋至時(よしとき)・景保父子らの墓がある現東上野の源空寺で、彼は今もここに妻と共に眠っている。

(掲載号:06月23日号)