週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

連綿と 俎開き 報恩寺

 伊能忠敬や幡随院長兵衛の菩提寺・東上野の源空寺の正門前の道路を南、浅草通り方向へ向かうと、同じ側に坂東報恩寺が建っている。真宗大谷派の寺で、『江戸名所図会』に「当寺は下総国豊田の庄横曽根にある事数十世……終に武州に移り」とある。

 親鸞の高弟性信(しょうしん)が鎌倉時代の建保二年(一二一四)、現在の茨城県水海道市に開山した。慶長七年(一六〇二)江戸に移ってからも市中を三転、文化七年(一八一〇)現在地に落ち着いた。

 所在地はこのように変わっても、「(まないた)開き」の行事は変わらず続けられた。性信の教えに深く帰依した老人が実は下総飯沼天満宮の祭神で、教えを受けたお礼に毎年二匹の鯉を贈ると約束したという伝説に基づく行事である。

 若月紫蘭著の『東京年中行事』に一月の行事として「報恩寺の俎開(十二日)」が取り上げられ、詳細なルポ記事が載っている。

 「書院正面の床の間には開基性信上人の画像がかかげられ、下総国岡田郡の飯沼天満宮から献上した目の下一尺許りの御手洗(みたらし)の鯉二尾が、竹の()の子に巻いたまま黒塗りの台に載せて型の如くに供えてある。」

 この鯉を住職以下役僧が見守る中、烏帽子に大紋の装束を付けた料理人が大俎の上で箸と包丁を使ってさばいていく。同書はこの儀式が「六百七十八年前の昔から今(明治四十四年)に至るまで、連綿として絶えた事のないという」とも記しているが、これが平成の現在も続いている。

 ふだんの同寺では、境内の銅鐘が見ものである。慶安元年(一六四八)、当時の名鋳物師堀浄甫(じょうほ)が鋳造した。鐘楼の側には、かつて本堂の屋根にあった高さ二メートル余、重さ五百三十キロの鬼瓦も置かれている。落雷で破損したため昭和六十年の修復工事で取り外したものである。

(掲載号:07月07日号)