週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

楡家と 世田谷 の変遷

 斎藤茂吉は大正十四年 大晦日(おおみそか)の日記にこう記している。

 〈今年ハ実ニ悲シイ年デアツタ。苦艱ノ年デアツタ。帰朝シテ来テミルト家モ病院モ全ク焼ケテヰテ図書ガ先ズ全滅デアツタ〉

 歌人の茂吉は脳神経科の医師であり、青山脳病院の院長斎藤紀一の婿養子でもあった。医学研究のため大正十年欧州に留学、船で帰国途中の大正十三年十二月二十八日、青山脳病院が失火で全焼、多数の入院患者が焼死する惨事が発生した。茂吉が神戸港に着いたのが翌年一月五日である。

 義父の紀一は病院の安全管理の責任を厳しく問われ、青山からの移転を迫られた。たまたま大正十四年に玉川電車の三軒茶屋−下高井戸間(現・東急世田谷線)が開通した。紀一は新病院の敷地を世田谷に求める。茂吉の次男、北杜夫(本名斎藤宗吉)が斎藤家をモデルにした『 楡家( にれけ)の人びと』(新潮文庫)に、紀一が世田谷を訪ねる場面がある。

 〈梅ヶ丘という土地に着いた。 (あた)りは一面の麦畑である。その中に一軒だけある見るからに豪農らしい家が地主であった。(中略)それから、目的の土地にむかった。前方はもとより、横を向いても、うしろをふりかえっても、見渡すかぎりの麦畑である。小川が大層のどかに流れている〉

 大正末年の世田谷風景だが、ちょうど関東大震災直後で周辺の市街化は急速に進み、世田谷線に続いて昭和二年には小田急が新宿−小田原間を結んでいる(梅ヶ丘駅の開設は昭和九年)。

 茂吉が義父から病院(現・都立梅ヶ丘病院)の院長を引き継いだのは昭和二年で、この間青山の事後処理、さらに新病院建設のため役所との折衝、診療、金策と奮闘が続いた。

 隣接の地名 羽根木(はねぎ) は、赤羽(北区)赤羽橋(港区)羽田(大田区)などと同様、赤土の ( はに)と関連するようだ。

(掲載号:07月21日号)