週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

鎮火社 秋葉原 秋葉神社

 伊能忠敬らの菩提寺・源空寺、 (まないた)開きで知られる報恩寺門前の通りを北、入谷方向へしばらく行くと、右手に秋葉神社の西側参道がある。参道脇の掲示には、秋葉原という地名の起こりになった神社と記されている。

 秋葉神社は初め、今のJR秋葉原駅付近にあり、確かに秋葉原という地名や駅名は同神社に由来している。しかし秋葉原は神社名の転用ではなく、早とちりの東京市民が命名した地名といえる。

 明治二年十二月、現在の秋葉原駅東の神田花岡町一帯で大火事があり、焼け跡は火除け地に指定され一万二千坪余りが空き地になった。翌年、空き地の中央東寄りに防火祈願の神社が創建された。

 祭神は皇居紅葉山から勧請された三体の鎮火の神さまで、神社名も「鎮火社」といった。ところが、江戸・東京では防火の神さまといえば、遠州秋葉山(静岡県春野町)の秋葉権現が有名だった。

 「世人、当社を鎮火の社と号せらるゝをもて、子細を弁ぜずして遠州秋葉山の神を勧請ありしと心得て、参詣のもの秋葉山権現と称へて拝する人まゝあり」

 『武江年表』明治三年の記述で、当時の東京市民の多くは鎮火社の祭神は秋葉権現と別なのに「火伏せの神さまなら秋葉権現に違いない」と勝手に思い込んでしまった。さらに神社周辺の空き地を「秋葉ヶ原」とか「秋葉の原」と呼ぶようにもなった。

 明治二十一年、鎮火社の敷地は当時の日本鉄道会社の貨物停車場用地として払い下げとなり、神社は現在地に移転した。もちろん鎮火社の名で移ったが、昭和五年、秋葉神社と改称した。俗称を本名としたわけである。

 ちなみに、今の松が谷の地名は浅草北松山町・松葉町と入谷町の一部が合併して同四十年に誕生した。

(掲載号:07月28日号)