週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

赤堤と 松原の 今 昔

 田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける

『万葉集』の山部赤人(やまべのあかひと)の歌で、静岡県の田子の浦から雪の富士を望んでいる。ところが奈良時代の富士は、一方で噴火活動を続け噴煙を上げていたらしい。同じ『万葉集』に、こんな歌もある。

 我妹子(わぎもこ)に 遭ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ

 かわいい恋人に会えないので、私の胸は火を噴く富士のように燃えると訴えている。

 関東地方では有史以前から富士や浅間などの火山が噴火して火山灰を降り積もらせた。これが関東ローム層と呼ばれる赤土の堆積である。だから赤のつく地名も多い。

 世田谷区の赤堤(あかづつみ)は、世田谷吉良氏の出城があって、赤土の堤に囲まれていたからだという。ここの古刹、西福寺(同区赤堤三‐二八‐二九)には、戦国時代末期の天正十二年(一五八四)に高野山金剛峰寺から送られた文書があって、そのあて先に「赤堤村西福寺」と明記されている。

 江戸時代に入ると支配者が替わる。旗本の服部左兵衛貞信の知行地になり、新しく作られた玉川上水から灌漑用水が引かれ、新田も広がった。世田谷吉良氏の旧臣だった松原佐渡守の一族は帰農して赤堤村内に開拓地を作り上げた。これが松原村の起源で、元禄(一七世紀末)のころ赤堤村から分離独立している。

 明治以後、この地域は首都東京の後背地になり開発はやや出遅れた。大正四年、京王電鉄の新宿‐調布間開通の際、電鉄が地元の協力者に電灯供給の特別サービスをした。これが松原の電灯第一号になったとか。

 いま松原は、北に京王線、南に小田急線、東を井の頭線、西を東急世田谷線と電車路線に囲まれる、交通至便の近郊住宅地である。

(掲載号:08月11日・18日合併号)