週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

「明大前」に 映された 喜怒哀楽

 〈明大前という町が著しく変化したのは、昭和三十年代の後半から四十年代の初めにかけて、つまり「東京オリンピック」が開催された昭和三十九年前後のことだった〉

 京王線の「明大前」(世田谷区松原)に育った作家の窪島誠一郎は『「明大前」物語』(筑摩書房)に、そう書いている。掘っ立て小屋のようだった明大前駅がモルタル造りの小ぎれいな駅舎に生まれ変わり、ほんの五、六メートルの道幅だった甲州街道が十メートル近くまで拡幅された。その甲州街道をエチオペアのアベベや日本の円谷幸吉(つぶらやこうきち)が走ったのである。

 貧しいが実直な養父母の下で成長した窪島は、そのころ甲州街道沿いにスナックを開業したばかりだった。

 〈私はマラソンの当日、沿道の見物人に自転車でオニギリを売った。何しろこの日、競技場から飛田給(とびたきゅう)までの沿道を埋めつくした見物人は二十万人とも三十万人ともいわれていた〉

 働き者で商機を見るに敏な窪島青年は、オニギリ行商だけでなく、スナックの店で女子バレー、体操などのたびに「金メダル定食」なる特別メニューをつくって大当たりを取ったという。

 作中では、窪島が実父の水上勉に再会するまでの数奇なドラマが簡潔に語られている。戦時中の昭和十六年、無名作家時代の水上の子に生まれたが、貧窮のあまり養父母に引き取られたのだった。窪島は画廊経営にも進出し、長野県上田市に戦没画学生の作品を集めた異色の美術館「無言館」を開設している。

 「明大前」駅は、大正二年の開業当時は「火薬庫前」という物騒な駅名だった。付近に陸軍の火薬庫があったからだが、大正六年地名の「松原」に改名、さらに昭和十年明大予科の創設を受けて現在の駅名に改称された。

(掲載号:09月08日号)