週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

改革が 生んだ 猿若町

 天保十二年(一八四一)十月七日明け方、堺町の中村座から出た火事は、同座のほか隣町の葺屋町の市村座など現在の日本橋人形町三丁目一帯の興行街を焼き払った。当時芝居小屋の火事は珍しくはなく、関係者は前例に従って幕府に再築願いを出した。

 ところが、願いは預かり状態になってしまった。折りから、老中筆頭水野越前守忠邦は天保の改革を断行中で、風紀を乱す芝居などは取りつぶそうとしたのである。

 その一方、水野は北町奉行の遠山左衛門尉景元に芝居の取りつぶしについての意見を求めた。遠山とは、今も時代劇でおなじみの「遠山の金さん」である。彼は桜吹雪の刺青はともかく、若いころは道楽者で庶民の事情に通じていた。さすがの水野も独断で大衆娯楽の芝居をつぶすのは不安だったらしい。

 金さんは庶民の味方だった。芝居の「破却は不当の由」と敢然と反対意見を具申した。水野もこの意見を無視できず取りつぶしは断念して、芝居を江戸の中心から遠ざけることにした。

 移転先は、浅草聖天町近くの丹波(京都府)園部藩主小出信濃守の下屋敷地とし、直ちに小出家を立ち退かせた。翌年四月、そこは江戸歌舞伎の元祖といわれる初代中村勘三郎が、初め道化役の猿若を得意として猿若勘三郎と名乗っていたことから「猿若(まち)」と名付けられた。

 同年九月、一丁目で中村座、二丁目で市村座が早くも興行を始めた。翌年、木挽町(現中央区銀座)の河原崎座も三丁目に移ってきた。同座は中村・市村と並ぶ江戸三座の一つ森(守)田座の控櫓(ひかえやぐら)である。控櫓は、三座のどれかが借金などで興行できないときに限って代わりに興行できた。

 猿若町は現在の浅草六丁目の一部で、明治初年まで繁栄を続けた。

(掲載号:09月29日号)