週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

家光の 褒美も 役立った

 寛永九年(一六三二)、幕府の軍船・安宅(あたけ)丸が伊豆から江戸に回航されるときである。艪の数が百に上るという大船だけに、水夫(かこ)の艪拍子が乱れがちで船は思うように進まなかった。船手頭の向井将監はふと思いついて、木遣りの名手として評判の初代中村勘三郎を呼び出した。

 将監は、彼に水夫たちに木遣りを教えるよう頼んだ。その稽古がすんだ後、勘三郎が安宅丸の舳先に立ち、朗々と木遣りを歌うと、それに合わせて艪拍子は見事にそろい、船は無事に江戸に着いた。

 これを聞いた徳川三代将軍家光は、安宅丸の雄姿を確かめたいと隅田川で“観艦式”を催した。勘三郎は赤の袖無し羽織に同色の鉢巻きを締め、五色の采配を手にした一世一代の晴れ姿で舳先に立った。

 ゆうゆうと航行する安宅丸の姿に感動した家光は、勘三郎の美声を「天下一」と褒め自ら金の采配を与えた。采配は中村座の座主・勘三郎家代々の家宝として伝えられた。

 幕末から明治初めにかけて歌舞伎の名脇役として鳴らした三代目中村仲蔵の自伝『手前味噌』に載っている、初代勘三郎の逸話である。さらに仲蔵は、将軍下賜の采配の存在が天保の改革時の芝居存続に物を言ったと記している。

 「全体水越さまは芝居をまるで取り潰す御了簡なりしが、例の金の(ざい)の一件を思はれ、さう手をつけるわけに行き兼ねるゆゑ替地を下さる事になりし()に聞けり。実に一本の金の麾で数百人の生活がたつといふはいと有難き事にこそ」

 水野越前守が、興行街を浅草北部の猿若町に移転させることで妥協したのは、北町奉行遠山左衛門尉の意見具申が原因というのが定説のようになっている。だが江戸時代のことだけに、金さんの意見に加えて仲蔵が記した一件も芝居取りつぶしの回避に役立ったと思われる。

(掲載号:10月06日号)