週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

石川達三が 住みなれた 都会の田舎

 作家の石川達三は、昭和十年、第一回の芥川賞を受賞して文壇にデビューした。他の候補作家には太宰治、高見順などが目白押しだった。

 受賞作は『蒼氓(そうぼう)』。難しい言葉だが、一般民衆のことで、「氓」には「人民」「移住民」の意味がある。当時、国策の名のもとに南米ブラジルに送り出された貧しい農民たちの追いつめられた実態を描いた社会性の強い作品だった。石川は昭和五年、二十六歳のとき移民船でブラジルへ渡航、奥地の日本人農場に滞在しており、その実体験に基づいた新鮮な創作手法が文芸春秋社長の菊池寛を衝き動かしたといわれている。

 石川は明治三十八年、秋田県に生まれた。父は中学の英語教師で、転勤によって秋田、岡山の各地を転々とした。大正十二年、早大第二高等学院に入学、創作活動に励む。しかし、無名作家の時代が長く、力作の『蒼氓』もなかなか注目されなかった。初稿ができたのが昭和七年で第三稿まで書き直し、本人も諦めかけていた。それが第一回の芥川賞選考で同人誌から拾い上げられ、脚光を浴びたのである。

 石川は受賞後、『日蔭の村』『結婚の生態』などで社会問題に鋭く迫り、戦後も『望みなきに非ず』『風にそよぐ葦』などの新聞連載がヒットした。

 昭和十五年から世田谷区玉川奥沢(現・奥沢六丁目)に住んだが、作風に通ずる良識派生活人だったようで、長男が通った九品仏(くほんぶつ)小学校の初代PTA会長をつとめた。地元への愛着を正直に書いた一文『住み着いた感じ』が、『世田谷区まちなみ形成史』(同区編)に収められている。

 〈九品仏は東京でありながら適当に田舎だ。田舎だけれども東京の文化的なものはすべて備わっている〉

 昭和三十八年、大田区田園調布に移ったが、墓は九品仏の浄真寺にある。

(掲載号:10月13日号)