週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浅草を 拒んだ 猿若町

 天保の改革の結果、浅草北部に興行街の猿若町が誕生したのは天保十三年(一八四二)だった。以来、同町は江戸唯一の芝居町として繁盛したが、幕末から明治にかけて早くも崩壊が始まった。

 慶応二年(一八六六)、歌舞伎三座と共に移ってきた人形芝居の薩摩、結城両座が、それぞれ神田、日本橋に移転した。明治になると、五年に守田座が今の中央区新富、中村座は十七年に台東区鳥越、市村座は二十五年、台東に移り、芝居街としての猿若町の歴史は五十年に過ぎなかった。

 町名としての猿若町は昭和四十一年九月まで存続し、同二十二年に台東区が成立してからは浅草の冠称が付いて浅草猿若町となった。

 ただ猿若町ができた当時、役者を始めとする芝居の関係者は、猿若町が浅草の一部になることに抵抗感を持ったようである。芝居小屋と共に猿若町に移り住んだ三代目中村仲蔵の『手前味 』に、こんな記述がある。

 「そのうち役懸り、削り置きし棒杭数本持ち出し、去暮より下し置かれし、猿若町の町名を書き記す。東条・中島さま浅草の総名肩書きに及ばず、江戸猿若町と唱へ、やはりこれまで通り、山王様御祭礼の山車を、当所より曳き出すべしと仰せ渡さる」

 東条、中島さまは、幕府の役人である。山王様は将軍も氏子の現千代田区永田町の日枝神社で、山王祭りは天下祭りといわれた。移転前の芝居町は、その氏子地域だった。

 仲蔵たちはこの処置に喜んで、移転後の山王祭りに猿若町から山車を引き出して参加、「浅草にきたなら三社様の氏子だろう」という浅草の住民とトラブルを起こしている。

 その猿若町も今は浅草六丁目となった。芝居小道具を扱う明治五年創業の藤浪小道具と小屋跡の石碑だけが、昔を偲ばせる。

(掲載号:10月20日号)