週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

荒波を 越えた 九品仏

 九品仏(くほんぶつ)の浄真寺(世田谷区奥沢七−四一−三)を開いたのは浄土宗の高僧珂碩(かせき)である。

 江戸時代初頭のことでもあり、珂碩の一生は波乱に富んでいる。元和四年(一六一八)武士の家に生まれたが、幼時に父を失い、十六歳で出家して生実(おゆみ)(現・千葉市中央区)の大巌寺の珂山(かざん)に就いた。師の珂山が有名な江戸・霊巌寺の住職に移ったため、珂碩もこれに従った。

 明暦三年(一六五七)、本郷の本妙寺から出火して江戸市中を焼き尽くす振袖火事が起こり、霊巌寺も焼亡する。幕府は江戸の防災対策に乗り出し、都心の霊巌島(東京・中央区)にあった霊巌寺も深川への移転が決まった。

 この深川移転の責任者になったのが、当時四十歳の珂碩だった。新しい建設予定地は海浜で、埋め立てから始めなければならなかった。珂碩は伽藍の設計、信者からの資金集めだけでなく、率先して土砂運びにも努め周囲の信頼を集めたという。

 珂碩には悲願があった。毎日の費えから三文を蓄え続けて阿弥陀像九躰(たい)を造立することだった。名僧は造像に自ら鑿を振るうが、多忙な珂碩がようやく一躰を完成するのに二十年を必要とした。見兼ねた高弟の珂憶(かおく)が京都から駆けつけて協力、寛文七年(一六六七)に目的を達成した。

 ところが寛文九年、深川が台風による大洪水に見舞われ、できたばかりの阿弥陀像が海に呑まれた。このとき珂碩は請われて越後(新潟県)村上の泰叟寺(たいそうじ)住職だったが、仏像の安全を懸命に祈願し、奇跡的に九品仏が元に戻ったという霊験譚が残っている。

 延宝六年(一六七八)、奥沢の村民から新しい寺の住職として移住を求められ、珂碩は九品仏などとともに引っ越してくる。ここでも珂憶の熱烈な支援があり、浄真寺の歴史がつくられた。

(掲載号:11月03日号)