週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

今戸橋 山谷堀 日本堤

 浅草七丁目の待乳山聖天が鎮座する待乳山は、『江戸名所図会』に「真土山」とあって「今戸橋の南の詰にあり」と記されている。今戸橋は聖天の裏側にあって、現在の浅草七丁目と今戸一丁目の間を流れていた 山谷 ( さんや 堀に架かっていた。だが堀が暗渠となった今は、橋柱と欄干の一部が残っているだけである。

 単に「堀」とも呼ばれた山谷堀は王子から根岸へ流れていた音無川が水源で、三ノ輪から遊廓の新吉原の北を通って南東へ流れ、今戸橋の東で隅田川に流入していた。今戸橋は山谷堀最下流の橋だった。

 現在、都下水道局日本堤ポンプ場付近からの下流部分が遊歩道となっているが、この間の約七百メートルの土手・日本堤が「土手八丁」といわれ、その昔は新吉原への主要道路の一つだった。

 ・柳橋から小舟を急がせ山谷堀 土手の夜風がぞっと身にしむ衣紋坂 —— 現在の浅草橋辺りの船宿から猪牙(ちょき)船に乗って隅田川を上り、今戸橋下の山谷堀に着いた遊客は、そこから徒歩か駕籠で新吉原に向かった。

 「聖天町より箕輪に至る。その間凡そ拾三町程の長堤なり。(俗に八町縄手と云ふ)元和六年庚申の歳、台命に依りて荒川水 ( よけ の為にこれを築かせらる」

 『江戸名所図会』の「日本堤」の記述で、新吉原設置の三十七年前の一六二〇年に築堤された。名前の由来は、日本全国の大名を動因して築いたから、あるいは六十余日で完成したのが日本六十余州に通じるのでとする説がある。しかし、単純に堤が二本で二本堤といったのが日本堤になったというのが真相らしい。

 また、日本堤を築くために待乳山を崩した土を使ったと伝えられている。つまり、元和六年以前の待乳山は現在よりかなり高くそびえていたと推定される。

(掲載号:11月17日号)