週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

家康の密命 新宿・太宗寺 「霞ヶ関」跡

 広さ約十万坪といわれる国民公園の新宿御苑は、江戸時代、信州高遠(たかとお)藩内藤家の下屋敷だった。徳川家康の功臣だった内藤清成(ないとうきよなり)が、家康から「馬で一息に駆け回った土地を与える」といわれて約束の通り拝領したという伝説がある。

 しかし、内藤の拝領した邸地があまりにも広大だったため、その伝説は後世の作り話という見方がある。実は、内藤は家康から極秘の特命を受け、その大任を果たした恩賞だったというのである。

 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は関東一円を支配していた北条氏の本拠、小田原を攻め落として天下を一統した。

 歴史は動く。秀吉は小田原攻めの陣中で、東海地方の雄だった徳川家康を新しく手に入れたばかりの関東に移封した。三河や駿河に馴れ親しんできた家康の譜代の家臣には関東移封に不満を洩らす声もあったが、家康は直ちに江戸へ移る準備に入った。

 江戸は北条氏の重要拠点の一つだった。八王子城では北条の棟梁北条氏政(ほうじょううじまさ)の弟氏照(うじてる)が頑強に抵抗して豊臣軍を悩ました。また世田谷城(世田谷区世田谷)は北条氏の姻戚吉良氏の居城だった。

 家康が内藤清成に与えた密命は、江戸占領の先遣隊として甲州街道の要点を押さえ、治安を確保することだった。内藤はいち早く四谷の旧家・豪農などに密使を送って、現地の情報を集め、自身は伊賀の鉄砲隊を率いて新宿付近に布陣した。

 家康が江戸へ入ったのは同年八月一日。内藤や青山周辺を固めた青山忠成(あおやまただなり)らの出迎えを受けて家康はご満悦だった。

 大久保の百人町(ひゃくにんちょう)は、のちに伊賀の百人組鉄砲隊の居住地。また新宿二丁目交差点付近は甲州街道と中世の鎌倉街道が出会う要点で、内藤清成が布陣した「霞ヶ関(かすみがせき)」の跡という。因みに内藤氏の菩提寺は霞関山太宗寺(かかんざんたいそうじ)である。

(掲載号:12月01日号)