週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

蜀山人 小万を 売り出す

 詩は詩仏 書は米庵に狂歌乃(おれ) 芸者小万に料理八百善

 江戸後期の狂歌師蜀山人・大田南畝(一七四九−一八二三)作といわれる歌で、詩仏は大窪詩仏(一七六七−一八三七)、米庵は市河米庵(一七七九−一八五八)。乃公こと蜀山人と共に時代を代表する漢詩人であり書家である。

 この三人と肩を並べる芸者小万と料理屋の八百善は、浅草山谷堀河口、俗に堀と呼ばれた花柳界の名物だった。

 江戸時代、遊郭の新吉原は度々火事に見舞われた。その際、妓楼経営者は復興するまでの一定期間他の土地で営業することを許され、そこを仮宅(かりたく)といった。だが、仮宅の地は新吉原復興後も色街として繁盛するところが多かった。

 堀もその一つで、延宝四年(一六七六)に設けられた仮宅がそのきっかけとなった。今戸橋の南北岸に船宿が立ち並ぶようになったのを始め、時代が下るにつれ料理屋などができて、新吉原をすぐ側に控えた独特の色街として発展した。

 小万は十六歳で船宿の武蔵屋から芸者としてデビューした。器量、芸共に申し分なかったが、整いすぎて冷たい感じがあり、あまり客に呼ばれなかった。たまたま蜀山人から江戸切っての高級料理茶屋・八百善に呼ばれたとき、そのことを嘆くと彼は即座に小万の三味線に冒頭の狂歌を書いたといわれている。

 以来、「堀の小万」は売れっ子になった。酔うと歯切れのいい啖呵を切り、気っぷのよさも申し分なかった。座敷の帰り道の日本堤で二人の侍が刀を抜いて町人二人を脅している中に割って入り、円満に話を付けたこともある。

 名妓としての評判が高く、出雲松江藩主で茶人の松平治郷(はるさと)にも気に入られたが、三十五、六歳のとき若い妓に二代目を譲って諸国巡礼の旅に出て消息を絶った。

(掲載号:12月08日号)