週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

武蔵の武将 江戸重長と 古刹慶元寺

 東京の地名のなかで古いのは、湯島(文京区)桜田(千代田区)などで、平安時代の『 和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に早くも登場する。これに対して、江戸の文字が最初に現れるのは鎌倉幕府の記録である『 吾妻鏡(あずまかがみ)』の治承4年(1180)8月26日の頃である。

 伊豆で挙兵した源頼朝に呼応して決起した三浦一族に平家の軍勢が襲いかかる。その平家方のなかに江戸太郎 重長(しげなが)の名が出てくる。江戸氏はもともと武蔵平氏の名門である秩父氏の流れに属し、12世紀の初めころ、重長の父の重継がいまの大手町付近に城郭を構え、地名を取って江戸氏を名乗ったらしい。

 江戸の地名の起源は明らかではないが、いまの日比谷あたりが一面の入江だったことはよく知られている。だから「入江の戸口」つまり江戸という説が有力である。

 その戸口を握り、海陸交通の要地を占めた江戸氏は武蔵の豪族として力と富を蓄えていた。頼朝も江戸氏を無視できず、1ヶ月ほど後にはとうとう味方につけた。懐柔策として頼朝は江戸重長への書状で「武蔵国に於いては、当時 (なんじ)(すで)に棟梁たり」(吾妻鏡)と持ち上げている。

 室町時代に入ると太田道灌が勢力を伸ばして、江戸城を本拠としたため、江戸氏は木田見(世田谷区喜多見)に根拠を移し、さらに徳川時代には家康に召し抱えられたので徳川氏に遠慮して、江戸氏から喜多見氏に改称している。

 かつて多摩川の筏師たちの往来で賑わった筏道に沿ったのどかな田園を背景に、江戸氏の菩薩寺にふさわしい慶元寺(世田谷区喜多見4-17-1)がある。江戸重長が江戸城内の 紅葉山(もみじやま)(いまの皇居内)に創立し、天文9年(1540)に現在地に勧請された。その境内に江戸氏歴代の墓所と、江戸重長の雄姿を偲ばせる銅像がある。

(掲載号:02月19日号)