週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

隅田川から 多摩川へ 東京の膨張

 川本三郎著『郊外の文学誌』(新潮社刊)の帯に、こういう内容紹介があった。

<近代の東京は「下町」を置き去りにする形で、西へと膨張していった>

 明治以後の東京の歩みを簡潔に表現した言葉である。国木田独歩が代表作『武蔵野』(明治34年刊)で、東京西郊の落葉林や多摩川を取り上げ「郊外」に新しい生命を吹き込んだのはよく知られているが、川本はその胎動が画壇にもあったことに触れている。明治の洋画家・和田英作の作品渡頭(ととう)夕暮(ゆうぐれ)」(明治30年)である。

<夕暮れどき農作業を終えた農民一家が、川辺で渡しが来るのを待っている姿をとらえている。船に乗って対岸の家に帰ってゆくのだろう。

和田英作は前年、友人たちと多摩川畔の矢口村でこの絵の想を得たという。川は多摩川ということになる。(中略)東京の東を流れる隅田川が町なかを流れる都市の川なのに対し、多摩川は田園の川である。隅田川が早くから文人たちによって「発見」されていたのに対し、多摩川は和田英作の「渡頭の夕暮」といった作品はあるものの隅田川に比べれば「発見」の速度は遅い>

 その多摩川畔が、新時代の住宅地として注目されるのは明治の後半期だった。三菱財閥の岩崎家は、明治43年多摩川を見下ろす高台に霊廟を設け、別邸を構えた。現在の静嘉堂文庫美術館(世田谷区岡本2丁目)である。つづいて実業家鮎川義介、日本画家荒木十畝(じつぽ)、作家吉田絃二郎、さらに官界では元逓信大臣の田健治郎(でんけんじろう)男爵邸(現・五島(ごとう)美術館)などがある。

 『せたがや百年史』(世田谷区編)は、<江戸から明治にかけて隅田川沿いに多くの別荘・別邸が造られたが、これらが多摩川へと、東京の西進とともに移動してきた>と書いている。

(掲載号:01月15日号)