週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

衾の 地名は 消えた

 目黒区は昭和7年、東京府荏原郡目黒町と碑衾(ひぶすま)町が合併して誕生した。碑衾とは耳慣れない地名だが、明治22年、碑文谷村と衾村が合併して新しく作られた村だった。昭和2年に町となり、目黒区成立と共に消滅した。

 合併前の2つの地名は村、町時代は大字名や町名として残った。区になってからも町名は存続したが、衾町は昭和39年、八雲となって同5丁目の公園名に名残をとどめるだけになってしまった。

 だが、かつての衾村は上・中・下目黒村、三田村、碑文谷村と共に「目黒六か村」の1つで、現在の環七通り南西側全域を占めていた。八雲を始めとする現在の自由が丘、緑が丘、中根、大岡山、平町、柿の木坂、東が丘などである。

 江戸時代以前からあった村のようで、『新編武蔵風土記稿』にも「衾村」の項がある。

(その)地は郡の西の方に當れり。村の四境は東の方碑文谷村に接し、西は深澤等々力の二村に隣り、南は奥澤新田及下沼郡の村々に堺ひ、北は馬引澤野澤の二ヶ村に及べり。かく接する地も多ければ其堺もいちじるしからず」

 郡とは荏原郡のことで、村は東西6町(1町は約109m)余、南北30町余で、江戸日本橋までの行程が3里、12km弱とある。村がいつできたのかは分からないが、天正18年(1590)、つまり徳川家康が江戸入りするまでは吉良氏の領地だったという。

 自由が丘の元の地名・谷畑(やばた)も、衾村の小名として挙げられていて「村の南の方にあり」と記されている。

 村名の起こりについては、衾は寝るときに体に掛ける夜具であり、村の地名が衾を広げたときの形に似ているからとするのが1番もっともらしい。馬の飼料にする小麦をひいたときに残る「(ふすま)」起源説は字が違うので、ちょっと無理がありそうだ。

(掲載号:01月29日号)