週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

筏道に残る 江戸の面影と 喜多見の社寺

 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた。木造のうえに密集した江戸の町は、火災に遭うとひと嘗めだったが、江戸にはその復興景気に沸き立つ一面があったのである。

 武州多摩郡檜原村(ひのはらむら)には、こんな俗謡があったという。

お江戸が焼けて山栄ゆ
杉丸太ヤンソレ
(もみ) 栗 (かく)の値のよさ
ヤレ樅 栗 角の値のよさ


 城下町建設の主力になったのは、尾張や紀伊の材木だったが、手近な奥多摩産も青梅材(おうめざい)と呼ばれて動員された。

 なにしろ江戸では大小の火災が繰り返されたので、青梅材の送り方も組織化されていった。上流で伐採した樹木を適当に集めて筏に組み、これを本流に流して、多摩川河口に近い六郷で深川の材木問屋に引き渡す。これが木場に運ばれて江戸の町に供給されるのである。

 鈴木理生編著『図説江戸・東京の川と水辺の事典』によると、江戸中期までは天然林の伐採で槻(欅の一種)・桂・栗・松・樅など針葉・闊葉樹の混在だったが、中期以後は植林が普及して、杉・檜の黒木(皮付き材)が主流になり、さらに整材して角材で搬出するようになったという。まさに俗謡の<樅・栗・角>である。

 筏師たちは六郷で材木を売った金を手にし、意気揚々と多摩川北岸を歩いて故郷へ戻った。金離れのよい筏師も多かったので、この通り道は筏道(いかだみち)と呼ばれた。都市化のためその面影は薄れたが、世田谷区の喜多見などにわずかに筏道の跡が残っている。

 東急田園都市線の二子玉川駅から小田急線の成城学園前駅に通じるバスに乗り、下宿(しもしゅく)(世田谷区喜多見3丁目)で下車する。バス通りから南に折れる道に入ると、ところどころに竹林が見られ、知行院の前から慶元寺に向かうあたりは、由緒ある古社寺と農村の筏道である。

(掲載号:02月12日号)