週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
金蔵院と 吉良氏の 東光寺
目黒区八雲の地名の元にもなった八雲氷川神社の西隣には、静かなたたずまいの金蔵院が建っている。明治以前は氷川神社の別当だった寺で16世紀末期、安土桃山時代に創建されたという。
『新編武蔵風土記稿』に、氷川神社の記述に続いて「別當金藏院」とあって「新義眞言宗にて、等等力村満願寺の末なり、……本尊不動明王長三尺の木像を安置す」と記されている。
現在の本堂には、本尊の大日如来像の脇侍として木造の不動明王像が安置されており、これが『新編武蔵風土記稿』にある不動明王像ではないかと推定される。
像の胎内から発見された願文や写経によって、像は応仁2年(1468)に大和国(奈良県)山辺郡付近で造られ、修験者によって運ばれてきたらしいことが分かった。ただ作者は不詳である。
金蔵院から氷川神社の方へ戻って東へ行けば、「吉良家菩薩所」と刻まれた石碑が門前に立つ東光寺がある。『新編武蔵風土記稿』に「禪家曹洞宗にて多摩郡青梅の海禪寺の末」と載っていて吉良家とのゆかりも記されている。
「開基は吉良治部大輔治家 なり、その嫡子 祖朝( 貞治( 4年3月10日10歳にして世を早ふしければ、それが追福の爲に一寺を草創し東岡寺といへり」
南北朝時代の1365年、世田谷城主の吉良治家が創建した寺で、最初は臨済宗、寺名は読みは同じだが「東岡寺」と書いた。徳川家康が江戸入りした翌年の天正19年(1591)、寺領30石を与えられた朱印状に「東光寺」とあるところから当時は既に現名になっていたと見られる。
今の境内には、高さ20mもの大イチョウや享保20年(1735)鋳造の釣鐘がある。墓地には、吉良氏一族の墓と伝えられる3基の石塔が建っている。
『新編武蔵風土記稿』に、氷川神社の記述に続いて「別當金藏院」とあって「新義眞言宗にて、等等力村満願寺の末なり、……本尊不動明王長三尺の木像を安置す」と記されている。
現在の本堂には、本尊の大日如来像の脇侍として木造の不動明王像が安置されており、これが『新編武蔵風土記稿』にある不動明王像ではないかと推定される。
像の胎内から発見された願文や写経によって、像は応仁2年(1468)に大和国(奈良県)山辺郡付近で造られ、修験者によって運ばれてきたらしいことが分かった。ただ作者は不詳である。
金蔵院から氷川神社の方へ戻って東へ行けば、「吉良家菩薩所」と刻まれた石碑が門前に立つ東光寺がある。『新編武蔵風土記稿』に「禪家曹洞宗にて多摩郡青梅の海禪寺の末」と載っていて吉良家とのゆかりも記されている。
「開基は吉良治部大輔
南北朝時代の1365年、世田谷城主の吉良治家が創建した寺で、最初は臨済宗、寺名は読みは同じだが「東岡寺」と書いた。徳川家康が江戸入りした翌年の天正19年(1591)、寺領30石を与えられた朱印状に「東光寺」とあるところから当時は既に現名になっていたと見られる。
今の境内には、高さ20mもの大イチョウや享保20年(1735)鋳造の釣鐘がある。墓地には、吉良氏一族の墓と伝えられる3基の石塔が建っている。
(掲載号:02月26日号)
