週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

元禄の世に 悲劇の浮沈 喜多見重政

 江戸の開祖となると、太田 道灌(どうかん)の名がよく出てくる。道灌より300年も前の12世紀初頭に大手町附近に居館を構え、江戸氏を名乗った江戸一族はどうも影が薄い。

 鎌倉時代には源頼朝も一目置いたという江戸氏なのだが、人気を失ったのは南北朝時代の「新田義興謀殺事件」に大きな原因があるらしい。

 江戸一族の江戸遠江守(とおとうみのかみ)が竹沢右京亮(うきょうのすけ)と共謀して、新田義貞の二男義興を多摩川の 矢口渡(やぐちのわたし)におびき寄せ、敗死させたという事件である。軍記物語『太平記』には江戸と竹沢に対して<きたなき男の振舞かな>と批判する言葉があり、まもなく江戸遠江守は多摩川で落雷を受け、ついに狂死したと語られている。やはり判官贔屓なのだろうか。

 江戸氏は、江戸城を道灌に譲って喜多見(世田谷区喜多見)に拠点を移し、喜多見氏を名乗る。ここでこの一族に束の間の春が訪れる。

 徳川家康を新しい主君とした喜多見勝忠は関ヶ原の戦、大坂冬の陣、夏の陣にあいついで従軍し、ついに2千石を取る喜多見若狭守に出世する。勝忠の子、重恒、重勝の兄弟も忠勤を励み、地歩を固めている。この兄弟が江戸初期の 承応(じょうおう)3年(1654)に喜多見の氷川神社に奉納した石の鳥居がある。高さ約3mと小ぶりの明神鳥居で、区内に現存する最古の鳥居だという。

 重恒の跡を継いだ喜多見重政は、5代将軍綱吉の側用人となり、生類憐みの令が出された際には中野、喜多見などに広大な犬小屋を設けるなど活躍が目立ち、一挙に2万石の大名に取り立てられた。

 ところが、元禄2年(1689)一族の喜多見重治(重恒の末弟)が刃傷事件を起こして将軍綱吉の不興を招き、重政は「取締不届き」と咎められ罷免、配流先の伊勢で他界したという。悲劇のお 家断絶(いえだんぜつ)だった。

(掲載号:03月25日号)