週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
緑道に なった 蛇崩川
世田谷・目黒区内には以前川というちょっと恐い名の 蛇崩 川が流れていた。『新編武蔵風土記稿』の「上目黒村」の項に「村の西の方 下馬引澤 ( 村より入、村内 莢 ( 橋の西にて目黒川に落合へり」と記されている川である。
現在の世田谷区弦巻辺りの水源から北東へ流れて目黒区北部を東流、東横線中目黒駅南東、駒沢通りの樹橋上流で目黒川に合流していた。樹は「さいかち」と読ませているから皂莢橋の後身だろう。
綱吉の時代には、まだ殺伐とした戦国時代の遺風が色濃く残っていた。かよわい子供や病人・老人が食い扶持減らしのために山野に捨てられることも珍しくなかった。綱吉は、人間も含めた「生類」を大事にし、平和な時代を築くという歴史の要請に応えた将軍だったというのである。
その蛇崩川は、昭和48年、暗渠化されて「蛇崩川緑道」という遊歩道になった。
蛇崩の名のいわれには諸説ある。大昔、この川に大蛇が出て暴れ、土地が崩れた。岸辺が砂利質で、よく崩れたので「砂崩川」と呼ばれていたのがいつの間にか蛇崩川となった、などである。
しかし、田園地帯をうねうねと蛇行していたとするのが1番妥当のようである。中目黒駅西方の緑道東端からかつての上流方面へ向かって歩いてみると、それが実感できる。緑道の名にふさわしく、沿道は緑と花が豊かでもある。
旧諏訪山橋北の台地には、烏森稲荷神社が鎮座している。創立年代は分からないが、昔、地元の稲荷講の人たちが江戸の烏森稲荷(現港区新橋)を参拝しての帰り道、狐が白馬に化けて付いてきたので、それを祀ったのが始まりという伝説がある。
こんな蛇崩川緑道の散歩を楽しんだのが、戦後の代表的歌人で芸術院会員だった佐藤佐太郎(1909-87)である。昭和46年から目黒に住んでいた彼は、できて間もない緑道をよく散策した。
蛇崩の道の桜はさきそめて
今日往路より帰路花多し
今、旧川端橋下の側壁に、昭和53年に彼が詠んだこの歌を始めとする蛇崩の桜の歌3首を刻んだ金属板が掲示されている。
現在の世田谷区弦巻辺りの水源から北東へ流れて目黒区北部を東流、東横線中目黒駅南東、駒沢通りの樹橋上流で目黒川に合流していた。樹は「さいかち」と読ませているから皂莢橋の後身だろう。
綱吉の時代には、まだ殺伐とした戦国時代の遺風が色濃く残っていた。かよわい子供や病人・老人が食い扶持減らしのために山野に捨てられることも珍しくなかった。綱吉は、人間も含めた「生類」を大事にし、平和な時代を築くという歴史の要請に応えた将軍だったというのである。
その蛇崩川は、昭和48年、暗渠化されて「蛇崩川緑道」という遊歩道になった。
蛇崩の名のいわれには諸説ある。大昔、この川に大蛇が出て暴れ、土地が崩れた。岸辺が砂利質で、よく崩れたので「砂崩川」と呼ばれていたのがいつの間にか蛇崩川となった、などである。
しかし、田園地帯をうねうねと蛇行していたとするのが1番妥当のようである。中目黒駅西方の緑道東端からかつての上流方面へ向かって歩いてみると、それが実感できる。緑道の名にふさわしく、沿道は緑と花が豊かでもある。
旧諏訪山橋北の台地には、烏森稲荷神社が鎮座している。創立年代は分からないが、昔、地元の稲荷講の人たちが江戸の烏森稲荷(現港区新橋)を参拝しての帰り道、狐が白馬に化けて付いてきたので、それを祀ったのが始まりという伝説がある。
こんな蛇崩川緑道の散歩を楽しんだのが、戦後の代表的歌人で芸術院会員だった佐藤佐太郎(1909-87)である。昭和46年から目黒に住んでいた彼は、できて間もない緑道をよく散策した。
蛇崩の道の桜はさきそめて
今日往路より帰路花多し
今、旧川端橋下の側壁に、昭和53年に彼が詠んだこの歌を始めとする蛇崩の桜の歌3首を刻んだ金属板が掲示されている。
(掲載号:04月08日号)
