週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

宇奈根 大蔵の 自然美

 世田谷区に宇奈根という地名がある。多摩川の左岸で、喜多見の東に接している。江戸のころには多摩川に注ぐ細流に蛍が棲み、初夏の蛍狩に多くの文人が訪れた。この地名は室町時代の記録に出ているほど古いが、由来は明確ではない。

 江戸の後期に歌人の橘千蔭(たちばなちかげ)が宇奈根の氷川神社に参詣して、こう詠んでいる。
 うしことの
 うなねつきぬき
 さきくあれと
 うしはく神に
 ぬさ奉る
宇奈根の地名を詠みこみ、「う」の音を巧みに重ねながら、氷川の神に幸運を祈った歌のようである。

 『日本国語大辞典』で<うなね>を引くと、
 うなね(項根) 首の付け根。後頸部。くびねっこ。
とあり、<うなね突き抜く>という熟語を首を深く垂れ下げて礼拝する動作のことと説明している。宇奈根の地名も、この地域の形状が多摩川に突き出した首ねっこに似ていたためという説もある。しかし『世田谷の地名』の著者、三田義春は、上古から溝のことをウナニというので、地形的にあてはまるとしている。

 地名の由来は別として、宇奈根の宇音が江戸の文人の歌心を誘ったのは確かである。このころ、隣村の大蔵村(現・世田谷区大蔵)出身の国学者・石井至穀(いしいしこく)は、師の屋代弘賢(やしろひろかた)から、宇奈根の蛍を是非見に行きたいと所望されている。

 屋代弘賢は、江戸後期の代表的な国学者で、塙保己一(はなわほきいち)の高弟として『群書類従』などの編纂に当たった。石井至穀はその弘賢のもとで『古今要覧稿』という考証叢書の編集を助けていたのである。

 屋代翁によると、享保年間(18世紀前期)に宇奈根を訪れた先人の紀行文があり、「宇治の蛍より美しい」と絶賛しているのだ。

(掲載号:05月06日・13日合併号)