週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸から 玉川に 蛍狩

 江戸時代の愛書家は、読みたい本を購入するだけでなく、持ち主から借りて書き写した。上野・不忍池近くに住んでいた国学者・屋代弘賢(やしろひろかた)は、その「不忍(しのばず)文庫」に写本を含めて5万巻を収蔵した屈指の蔵書家として名を残している。

 師の屋代翁から「宇奈根川(現・世田谷区宇奈根付近)の蛍を見たい」と所望された石井至穀(いしいしこく)は同門の友人にも声をかけて玉川旅行を計画した。

 門弟の至穀も筆まめで、その日帰り旅行を『玉川紀行』と題し書き残している。

 文化10年5月20日(1813年6月)、一行は早朝に牛込を出立した。梅雨空も四谷あたりで晴れ上がり、ホトトギスの声が聞かれた。世田谷に入ると豪徳寺に詣で、昼食の休憩をとる。そのあと世田谷八幡などを見学しながら、至穀の生まれ故郷である大蔵村(世田谷区大蔵)に着いたのは午後4時ごろである。至穀の家族は大歓迎で、酒肴でもてなしてくれた。

 暮れがたに、いよいよ近くの宇奈根川に向かうと、あいにくまた梅雨の雨で蛍が飛ばない。じりじりしていると、やっと雨があがり、ぽつぽつ光りだした蛍がみるみる増えて、川面に無数の光が映った。感動してみなが和歌を詠む。屋代翁も家の土産と、袖にそっと蛍を包むほど喜んだ。そのまま家路について、至穀が深川の自宅に帰ったのは深夜2時過ぎだったという。

 弘賢が56歳、至穀が36歳のころで、いずれも往復を歩いている。むろん200年後の今は、ホトトギスも蛍も住処を変えている。

 至穀は大蔵村の旧家の出身で、石井家は喜多見氏(江戸氏の子孫)とつながっている。代々学問を好み、至穀のときに農民の身分から幕臣に列し、のちに書物奉行(しょもつぶぎょう)にまで栄進した努力家だった。至穀の墓は永安寺(世田谷区大蔵6-4-1)にある。

(掲載号:05月20日号)