週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

多摩川の岸辺 大蔵の由来と 鎌田・吉沢

 幕府の 書物奉行(しょもつぶぎょう)は、江戸城内にあった紅葉山文庫(現・国立公文書館)を管理する要職だった。

 江戸時代後期に、世田谷の大蔵村(いまの世田谷区大蔵)の農家の出身ながら幕臣に取り立てられ、書物奉行にまで栄進した 石井至穀 (いしいしこく)は幼時から読書が大好きな優等生だったらしい。家柄も恵まれていた。石井家は鎌倉時代に大蔵村に居を構えた旧家で、家系は喜多見氏ともつながっている。

 喜多見氏は江戸を開いた名門江戸氏の直系で、江戸時代のはじめに喜多見一帯を所領とする大名だったが、将軍綱吉のときに家名断絶の憂き目を見た。至穀の高祖父(祖父母の祖父)にあたる石井 兼重(かねしげ)は喜多見氏から入った人で、断絶した喜多見家の愛蔵した書物を引き継ぎ、大蔵村の自宅に玉川文庫を設置した。望む人があれば自由に貸し出したというから、江戸時代中期に出現した公開図書館である。

 大蔵の地名については『江戸名所図会』が興味深い説明を残している。それによると、桓武天皇の延暦7年(788)大蔵卿の 石川朝臣豊人(いしかわあそんとよひと)が武蔵守に任じられており、この人が武蔵の国府(現・府中市)に着任し、近くの大蔵に住んだことから出た地名ではないかというのである。しかし、この時代は都の高官が直接赴任することは稀で、即断できない。大蔵の地名は全国各地に見られ、朝廷の 屯倉(みやけ)の所在地、あるいは大蔵の下級役人に因む地名も多い。

 鎌倉市にも 大蔵ヶ谷(おおくらがやつ)があり、石井氏は鎌倉時代にその大蔵ヶ谷から移住した歴史を持つ。石井氏が故地に因んで大蔵と名付けたとも考えられる。

 この近くに 鎌田(かまた)があるが、これは蒲田(大田区)にも通じ、沼沢地の意味だろうか。また、(芦)の沢から出たとみられる吉沢の地名もあり、いかにも多摩川のほとりにふさわしい。

(掲載号:06月03日号)