週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
地名に因む 柳田国男の 「喜談書屋」
世田谷区成城の住人、中江泰子・井上美子の共著『私たちの成城物語』のなかには、隣人だった女性解放活動家の平塚らいてう(雷鳥)、陶芸家の富本憲吉、詩人西条八十、作家野上弥生子、横溝正史などの横顔が描かれている。
俳人の井上美子さんは、顔見知りの柳田国男に句を褒められ恐縮した記憶をだいじに書き留めている。成城に生活と研究の本拠を置いた民俗学者の柳田国男の書斎跡(世田谷区成城6-15-14)は緑蔭館ギャラリーに変わった。後藤総一郎監修『柳田国男伝』に見る、往時の柳田邸はー。
<昭和2年(1927)8月の末、柳田は都下北多摩郡砧村喜多見 (現・世田谷区成城)に書斎兼住居を建て、厖大な蔵書の一切をそこに移した。(中略)新住居は南北に長い長方形の二階建て木造洋館である。階下の南側半分を占める40帖ばかりの大部屋が柳田の仕事部屋兼書斎という、ほとんど図書館に宿泊施設を付けたような風変わりな建物であった。柳田は、その書斎の四囲の壁面を床から天井まですべて大きな書棚で覆った>
懸案だった書物の山をやっと書棚に並べることができて柳田は大喜びだったという。
柳田が成城の地を選んだのは、長男為正の通う成城学園が校地周辺に宅地を造成して生徒の父母に分譲したからである。「1区画400坪、価格は坪14円」だから総額5,600円。当時朝日新聞論説委員として月々300円を得ていたが、養父からもかなりの援助があったという。
多摩川が近く、小鳥のさえずりの絶えない豊かな自然。成城の新宅は、たちまち柳田の研究拠点になり、知人や門下生が足繁く出入りするところになった。柳田はここを「喜談書屋( 」と命名した。地名の喜多見と、知友が集まって喜び談ずるという意味を掛けた名だった。
俳人の井上美子さんは、顔見知りの柳田国男に句を褒められ恐縮した記憶をだいじに書き留めている。成城に生活と研究の本拠を置いた民俗学者の柳田国男の書斎跡(世田谷区成城6-15-14)は緑蔭館ギャラリーに変わった。後藤総一郎監修『柳田国男伝』に見る、往時の柳田邸はー。
<昭和2年(1927)8月の末、柳田は都下北多摩郡砧村
懸案だった書物の山をやっと書棚に並べることができて柳田は大喜びだったという。
柳田が成城の地を選んだのは、長男為正の通う成城学園が校地周辺に宅地を造成して生徒の父母に分譲したからである。「1区画400坪、価格は坪14円」だから総額5,600円。当時朝日新聞論説委員として月々300円を得ていたが、養父からもかなりの援助があったという。
多摩川が近く、小鳥のさえずりの絶えない豊かな自然。成城の新宅は、たちまち柳田の研究拠点になり、知人や門下生が足繁く出入りするところになった。柳田はここを「
(掲載号:07月01日号)
