週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

田園都市 開発と 目蒲線

 現在の東急目黒線は以前、目蒲線といっていた。現JRの目黒と蒲田を結ぶ電鉄だったからである。ただ、目黒線といい目蒲線といっても、線路そのものは目黒区西部をかすめるように走っていて、ほとんどは品川、世田谷、大田区内を通っている。

 大正7年、当時の財界の実力者渋沢栄一が中心となって田園都市株式会社が設立された。同社は現在の田園調布、大岡山、洗足地区に広大な土地を買って田園都市の建設を目指した。しかし、交通の不便な土地で買い手が少なく、田園都市と都心を結ぶ鉄道建設が必要だった。

 同11年、資本金350万円で目黒蒲田電気鉄道株式会社が設立された。社長には五島慶太が就任して、現東京急行電鉄株式会社の母体が誕生した。翌年3月、目黒−丸子多摩川間、11月、丸子多摩川−蒲田間が開通した。

 この開通の年の9月1日、関東大震災が発生した。皮肉にもこの大災害が、目蒲線の経営には順風となった。沿線に住まいを求める被災者が多かったからである。
「この線は一方目黒から東京市電及び省線に連絡して市内に行く客を運び、一方蒲田及び、大井町方面の工場地帯への客を運び、なほ工業大学の新設によって、漸く学校街を沿線に作らうとし既に建設された田園都市は大いに好成績を挙げている」

 昭和4年に刊行された『新版大東京案内』の「目黒蒲田電車」の記述で、「工業大学」とは大正13年に浅草蔵前から大岡山に移ってきた現東京工業大学である。

(掲載号:08月26日号)