週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
粕谷まで 歩いて三里 蘆花夫妻
作家の 徳冨蘆花 は、ロシアの文豪トルストイを敬愛し、農村での生活を夢見た。
明治39年11月、38歳の蘆花は妻の愛子を伴って新しい住家探しに出た。知り合いの牧師が「玉川近くの千歳村( に教会の伝道地がある」と話したのに心が動き、案内者もなしに歩き始めた。
蘆花が当時住んでいたのは青山高樹町( で、現在の港区南青山7丁目あたりになる。すぐ西隣が渋谷区だが、このころには玉川電鉄(いまの東急田園都市線)も走っていない。行けばわかるだろう、という腹づもりだったらしい。
蘆花の作品『みみずのたはこと』はこう記録している。
<青山高樹町の家をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有( る 饂飩屋( に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松蔭神社で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、交番に聞いて地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込んだ>
玉川電鉄が開業したのは明治40年のこと、蘆花夫妻はひたすら歩いている。渋谷から三軒茶屋に出て、そこから世田谷通りに入った。
「小さな流れ」に沿って千歳村粕谷 ( (現・世田谷区粕谷)に着いたというから、 烏山川 ( 沿いに経堂や船橋を通り抜けたのであろうか。優に三里(約12km)以上の行程で愛子夫人は靴ずれに苦しみ、草履を買って履き替えた。それでも帰路は甲州街道を高井戸から新宿までまた歩いて三里、もう夜になっていたという。
これが縁で、蘆花夫妻は明治40年2月、世田谷区粕谷に居を定める。蘆花はここを恒春園( と名づけ「美的百姓」と称して文筆と農耕に励んだ。かつての烏山川は大部分が暗渠化されて、いまは烏山川緑道に変わったが、経堂付近からその緑道を北へ歩けば都立蘆花公園に出る。
明治39年11月、38歳の蘆花は妻の愛子を伴って新しい住家探しに出た。知り合いの牧師が「玉川近くの
蘆花が当時住んでいたのは青山
蘆花の作品『みみずのたはこと』はこう記録している。
<青山高樹町の家をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。
玉川電鉄が開業したのは明治40年のこと、蘆花夫妻はひたすら歩いている。渋谷から三軒茶屋に出て、そこから世田谷通りに入った。
「小さな流れ」に沿って千歳村
これが縁で、蘆花夫妻は明治40年2月、世田谷区粕谷に居を定める。蘆花はここを
(掲載号:10月14日号)
