週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
目黒競馬 四半世紀の 栄枯盛衰
JRA(日本中央競馬会)に「目黒記念」と銘打ったレースがある。東京・府中市の現東京競馬場の前身が目黒にあったことを記念する伝統のレースである。
目黒競馬場は山手線目黒駅の南西約1km、現在の目黒通りの南の下目黒の地に広がっていた。明治40年の開設で、総面積は21ha余、観戦スタンドは貴賓室などがある3階建ての1号館と間口が90m近い2号館があった。
最初の開催は、同年12月7、8日と14、15日の4日間だった。勝馬投票券、いわゆる馬券も発売され、なかなかの盛況だったらしい。目黒区発行の『歴史を訪ねて』によると、出走馬にはフドウ、ヤクモ2世など目黒にちなむ馬名も見られたという。
ところが翌年、馬券は射幸心をそそるとして発売が禁止され競馬場は一時閉鎖された。馬質改良奨励のためという名目で再開されたのは明治43年だったが、入場者は激減して4日間の開催で500人に満たないという状況だった。
当時の様子が、同44年に発行された『東京年中行事』に記されている。「目黒の競馬」という項で、「春季の競馬は5月に行われ、秋季の競馬と云うのは、11月10日前後に於て3日間行われる」という書き出しの後である。
「馬券が禁ぜられてからの競馬は至って淋しいもので、田舎馬がはなれて駆け出したのを見るほどの人出もない。ローマあたりの古跡でも見るように、馬見所 の建物はいたずらに雨露に曝されて、競馬の当日でもガランとしている」
こんな状態は大正3年、勝ち馬的中者にデパートの商品券を贈ることにするまで続いた。馬券が復活したのは大正12年だった。
そして第1回日本ダービーが行われた翌年の昭和8年の第2回ダービー後、目黒競馬場は幕を閉じた。
目黒競馬場は山手線目黒駅の南西約1km、現在の目黒通りの南の下目黒の地に広がっていた。明治40年の開設で、総面積は21ha余、観戦スタンドは貴賓室などがある3階建ての1号館と間口が90m近い2号館があった。
最初の開催は、同年12月7、8日と14、15日の4日間だった。勝馬投票券、いわゆる馬券も発売され、なかなかの盛況だったらしい。目黒区発行の『歴史を訪ねて』によると、出走馬にはフドウ、ヤクモ2世など目黒にちなむ馬名も見られたという。
ところが翌年、馬券は射幸心をそそるとして発売が禁止され競馬場は一時閉鎖された。馬質改良奨励のためという名目で再開されたのは明治43年だったが、入場者は激減して4日間の開催で500人に満たないという状況だった。
当時の様子が、同44年に発行された『東京年中行事』に記されている。「目黒の競馬」という項で、「春季の競馬は5月に行われ、秋季の競馬と云うのは、11月10日前後に於て3日間行われる」という書き出しの後である。
「馬券が禁ぜられてからの競馬は至って淋しいもので、田舎馬がはなれて駆け出したのを見るほどの人出もない。ローマあたりの古跡でも見るように、
こんな状態は大正3年、勝ち馬的中者にデパートの商品券を贈ることにするまで続いた。馬券が復活したのは大正12年だった。
そして第1回日本ダービーが行われた翌年の昭和8年の第2回ダービー後、目黒競馬場は幕を閉じた。
(掲載号:11月04日号)
