週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

蕎麦 境内ニ入ルヲ 許サズ

 江戸時代、浅草に 称往院(しょうおういん) という寺があった。大正12年の関東大震災で被災したため世田谷区の烏山寺町に移転したが、江戸の切絵図を見ても浅草寺の西側に称往院と書きこまれた寺地がある。

 8代将軍吉宗の時代は享保元年(1716)から始まるが、このころ称往院の寺内に 道光庵 (どうこうあん) という 塔頭(たっちゅう) (子院)があった。以下は笠井俊彌『蕎麦』(岩波書店)から。
<享保から天明にかけての道光庵の庵主は、3代つづけて蕎麦好きでした。特に宝暦・明和から天明にかけての庵主は、蕎麦どころの信濃の出身といわれ、その故もあってか蕎麦が大好きで、いつも蕎麦を愛好し、江戸広しといえども当代随一の蕎麦打ちの達人と称されたとか>

 明治初年に編まれた斎藤 月岑(げつしん) 『武江年表』の天明元年(1781)の項に、こうある。

 <○ちかき頃より、浅草称往院の寺内道光庵にて、蕎麦を製し始めけるが、都下に賞して日々群衆し、さながら 貸食餔(たべものや) のごとし。よって本寺より停められたり>

 庵主が檀家に振舞っていたのが、あまりにうまいので江戸の評判になり、檀家以外の客まで押しかけた。浅草から吉原まで足を伸ばす遊客もあって「たいこ (もち) 道光庵まで (むかえ) に来い」(当時の川柳)という有り様で、見かねた本寺の称往院から蕎麦の接待を禁止されたのである。

 京王線千歳烏山駅から北へ徒歩約20分。世田谷区北烏山5-9-1の称往院の山門前に「不許蕎麦入境内(蕎麦境内に入るを許さず)」の石碑が立つ。「天明6年」と刻まれているから、蕎麦めあての客が後を絶たず、とうとう禁制の碑になったようである。

 いまの称往院には道光庵はないが、蕎麦屋さんの店名に「○○庵」が多いのは、むろん道光庵の名声にあやかったものである。

(掲載号:12月02日号)