週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

駒場野 鷹狩り 権兵衛

 目黒区北部・井の頭線の駒場東大駅前を中心とする一帯は、かつて「駒場野」といわれる広大な原野だった。

 「道玄坂より 乾 ( いぬい の方十四五町ばかりを隔てたり。代々木野に続きたる広原にして上目黒村に属す」

 『江戸名所図会』の記述で、渋谷の道玄坂の北西1500メートルほど先に15万坪・約50haの原野が広がっていた。同書には、松の木が所々に生えている野原の中の道を、頭に何かを乗せた上に赤ん坊をおぶった女性や旅人が行き交う構図の挿絵も載っている。

 駒場野は、地名から江戸時代以前は馬の放牧地だったと推定されている。江戸時代の半ばには、将軍の鷹狩り場となった。

 「 雲雀 ( ひばり鶉 ( うずら野雉 ( きじ ・兎の類多く、御遊猟の地なり」と記す『図会』は、そうなったのは享保3年(1718)のこととも記録している。当時の将軍は8代吉宗で、彼は歴代将軍の中でも3代家光と並んで鷹狩りを好んだ。
 ただ、狩りが好きだからといって、いつも獲物が取れるとは限らない。だが、そうなると将軍の権威にかかわるし、ご機嫌ななめにもなる。そこで考えられたのが、あらかじめ野鳥を捕らえておき、いざというとき羽に傷をつけて放し、鷹が捕まえやすいようにするという苦肉の策である。

 この係りを「 綱差 ( つなさし 」といい、代々川井権兵衛という人が務めたが、初代は農民の出で、キジ取りの名人だったという。権兵衛さんはキジの餌づけから始めるのが例で、原野の一部を切り開いて餌にする豆の種をまいた。ところが、その種は大方カラスに食べられてしまった。

 権兵衛が種まきゃカラスがほじくる、の俗謡はここから生まれたという。もっとも同じような言い伝えは各地にあり、駒場野が"本場"かどうかは分からない。

(掲載号:04月10日号)