週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

砧 調布 田園調布

 砧は衣板(きぬいた)の変化した言葉だという。布地を打つ石や木の台のことで、水にさらした布地をこの台に置き、木製の(きね)で根気よく打つと、粗い布地が柔らかになり、光沢も出てくる。こうした技術は中国から朝鮮を経て日本に伝えられ、その作業は帰化人の住みついた古代東国の多摩川べりでさかんに行われた。

 万葉集の東歌(あずまうた)(巻十四)に多摩川の布つくりが歌われたのも、古くからこれが多摩川の名産だったことを証明している。律令制時代の租税の1つだった調として、朝廷に収められた布地が調布だった。仕事の適地として多摩川の中流が選ばれたのは、水量が豊富で流れも穏やかだから、布晒しに都合がよいし、砧の台になる石は川原にいくらでもある。下流になると、満潮時に海水がまじるので作業には向かないのである。

 調布市調布ヶ丘に布多天神(ふだてんじん)という古社があり、境内に弘化3年(1846)建立の布さらしの碑がある。この付近は調布の里と呼ばれていたので、明治22年、上・下布田(ふだ)村、上・下石原村などが合併した際に調布町が誕生した。その後、神代(じんだい)町と合併して調布市になっているが、市内には布田、染地(そめち)の地名がある。

 明治22年には全国的に市制、町村制が施行されたので、世田谷地区でも喜多見(きたみ)、大蔵、宇奈根、岡本、鎌田の5村が合併して砧村が創設されている。土地柄に因む砧の名は喜多見村の歌人田中正太郎と宇奈根村の俳人小泉鐐蔵が提案、村議会では満場一致で可決されたそうである。

 一方、この年、いまの大田区(当時、東京府荏原(えばら)郡)で上・下 沼部(ぬまべ)、鵜ノ木、嶺の各村が合併して調布村が生まれているのも見逃せない。これがその後、東調布町となり、渋沢栄一の田園調布計画のなかで、田園調布として知られるようになる。

(掲載号:04月24日号)