週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

千歳・砧なき 帝都・東京は 富士なき日本

 野趣豊かな駒場野公園の200メートルほど北方には、似たような名前の駒場公園が広がっている。面積は約4ha、手入れの行き届いた樹木が繁る同公園は旧加賀百万石16代当主前田 利為( としなり)侯爵邸跡地である。

 大正12年の関東大震災のあと、東京の人口は都心から周辺、郊外へ拡散し、東京の復興とともに大東京が形成されていった。

 それまで都心の15区が東京市に属し、周辺を 荏原(えばら)郡世田谷町(現・世田谷区)、 豊多摩(とよたま) 郡渋谷町(渋谷区)、豊多摩郡淀橋町(新宿区)、北豊島郡巣鴨町(豊島区)などが取り巻いていたが、都市機能は実質的に一本化し、旧市内と変わらない。昭和7年、東京が市域を拡張して従来の15区から35区の新制度を発足させたのは当然だ。

 世田谷区が誕生したのも、そのときのことである。それまでの荏原郡世田谷町、駒沢町、松沢村、玉川村の4町村が合併したのだが、おや、と思うのは 千歳(ちとせ)(きぬた) の名が見当たらないこと。実は千歳、砧の両村は当時北多摩郡に属し、東京市への編入対象から外されていたのである。

千歳村ではわかりにくいが、いま世田谷区内の 烏山(からすやま)祖師谷(そしがや)粕谷(かすや)などを含む地域であり、砧村には成城、喜多見、大蔵などがある。これが東京市編入の門を閉ざされたのだから、住民は憤激した。

 昭和6年に両村が提出した「編入陳情書」で絶叫する。
<両村を逸する帝都は中禅寺を欠ける日光、富士山なき日本に御座候>

 こうした事情の背景には、西多摩、北多摩、南多摩の3郡が明治時代に一時的に神奈川県に属し、明治26年になって東京府に編入されたという経緯があり、北多摩郡の千歳・砧だけが抜け駆け的に東京市に“昇格”するのは許せないとする他町村の強い反発があったのだという。

 いまから見ると、古色蒼然の内輪もめである。結局、千歳・砧は、歴史的にも経済的にも世田谷区と一体化しているという現実が認められ、昭和11年、めでたく同区編入が実現した。

(掲載号:05月22日号)