週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

砧公園に 武蔵野の 緑と水

 昭和26年、当時の首相吉田茂が「都内の街路樹が汚なすぎる」と都職員に注文をつけたという。第2次世界大戦後の昭和21年から5次、計7年にわたって宰相の座を占め、ワンマンと恐れられた総理だが、まだ国民は毎日の衣食住に追われていた。

 乏しい予算のなかで苗木の育成に苦労していた現場職員は憤慨したと、のちに都自然公園課長、上野動物園長を歴任した 石内展行 (いしうちのぶゆき) 氏が著書『 (きぬた) 緑地』のなかで回想している。そのころ石内氏は砧公園(世田谷区砧公園1-1)で苗圃の世話やら農園でムギ、イモを収穫して動物園に飼料として届けるやらで汗みどろだった。

 砧公園の歴史をたどると、日本の緑地政策の紆余曲折もよくわかる。

 昭和15年、東京府(都の前身)は紀元2600年行事として砧、 神代 (じんだい) 、小金井、 水元 (みずもと) など6か所に大緑地を設置することを決めた。緑地というのは、都市の環境や美観を守るために建築物を認めない空地である。もともとは都市の無制限な膨張に歯止めをかけるのが狙いで内務省が音頭をとったものだが、戦局の激化で、たちま軍部の主導による防空緑地に転換されてしまった。砧緑地も戦時中は軍事訓練場、食糧増産のための臨時農場として使われた。

 そして戦後。荒廃した焼け跡の町に少しずつ緑を復活させていくが、動物園の動物たちに飼料を届けるのも大切な仕事だった。公園の整備もままならず、砧緑地は昭和30年から10年間、都立砧ゴルフ場として利用された。

 砧緑地が本来の姿に戻ったのは昭和41年のことで、今では39万m2(11万8千坪)の園内に武蔵野さながらに谷戸川 ( やとがわ ) の清流が流れ、桜やツツジが季節を知らせ、野鳥が舞うバードサンクチュアリーもある。

(掲載号:05月29日号)