週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

砧名物 NHK 無線塔 

 <それは大正15年の末に近い12月25日のことであった。忘れもしないその日、暗箱のような受像装置をのぞきこむと、イの字がブラウン管の画面上にちゃんと崩れることなく映っているではないか。私は暗室をとびだし、助手や先生方を大声で呼んで、見てもらった>(高柳健次郎『テレビ事始(ことはじめ)』)

 浜松高工助教授だった高柳が、ついにテレビの発明に成功した一瞬である。新婚早々の妻の嫁入り持参金300円までつぎこんで没頭した研究がようやく実り、夜遅く実験を終えて学校を出ると、大正天皇崩御を伝える号外の呼び声が耳に入ったという。

 浜松に生まれた高柳は、少年時代、虚弱な体質であだ名も「お姫さま」、通信簿は丙と丁ばかりだった。自伝のなかでも「私のような愚鈍な者」と繰り返しているが、それだけに10年、20年と人より努力して結果の出る仕事をめざしたと書いている。

 イの字を映し出すことに成功して、国際的にも研究のトップに躍りだした。間もなく昭和15年にオリンピックの東京開催が決まり、高柳は世田谷区砧にあるNHK放送技術研究所のテレビジョン部長に招かれ、五輪のテレビ中継に取り組む。まだラジオの時代だ。技術研究所は昭和5年にラジオ研究所として創設され、先端技術のシンボルのような無線塔が砧名物だった。

 昭和6年に砧に移り住んだ詩人北原白秋の歌がある。

 無線塔うつろふ雲の騒立(さやだ)てば眼にとめて涼し秋来りけり

 高柳はこの技術研究所に実験局を完成させ、昭和14年には公開実験にこぎつけているが、戦争の荒波が押し寄せオリンピックも研究もお預けになった。

 高柳が研究に復帰し、NHKと日本テレビがテレビ放送を開始したのは、昭和28年のことである。

(掲載号:07月24日号)