週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

法華寺 改め 円融寺

 式亭三馬や羽倉簡堂の墓がある正泉寺から立会川緑道へ戻って西へ少し進むと、旧寺前橋の親柱が立っている。そこを南北に横切る道の北の突き当たりに、平安時代初期の仁寿3年(853)天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)が開基したという円融寺が静かなたたずまいを見せている。

 『江戸名所図会』に「妙法山法華寺」とある寺で、「碑文谷にあり。祐天寺の南、半道ばかりにあり。吉祥院と号す。天台宗にして、東叡山に属す」と記されている。

 名前からは日蓮宗の寺のようだが、天台宗とある。同書は、それについて簡単に触れている。
「当寺、その (せん) は慈覚大師の開創にして、天台宗の 古刹 (こせつ) なりしが、後日蓮宗の 宗化 (しゅうげ) に帰し、日源上人中興開基たり。つひに元禄に至り旧貫に復し、元の天台宗を唱ふ」

 実は同寺には波瀾の歴史があった。

 初め妙光山法服寺といった同寺は、弘安6年(1283)日源上人によって当時の新興宗派・日蓮宗に改宗され、寺名も法華寺と改めた。以来、吉良氏や徳川将軍家の保護を受け「碑文谷の法華寺」として大いに栄えた。最盛期には境内が3万坪もあって、18の坊舎が建ち、75の子院を有したと伝えられる。

 ところが法華寺は、他宗やその信者からは一切布施を受けず、またそれらに施しをしないという「 不受不施 (ふじゅふせ) 」の教義を強く主張した。これが過激な教義だとして幕府から弾圧され、元禄11年(1698)天台宗に戻され、幕末になって寺名も経王山円融寺と改められた。

 『江戸名所図会』編纂当時、寺名はまだ法華寺だったのだろう。同じように不受不施の教義で幕府に日蓮宗からの改宗を強要された寺としては、台東区谷中の天王寺(旧感応寺)がある。

(掲載号:07月31日号)