週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸の開発 六郷用水と 小泉次大夫

 江戸時代初頭は、日本史上稀に見る大開発時代だった。歴史家の大石慎三郎は『将軍と側用人の政治』(講談社現代新書)でこう書いている。

 <大河川の堤防構築といった治水工事や、そこから田んぼへ水をひくための灌漑工事は、それまで荒れるにまかされていた沖積平野を巨大な耕地に変えていた。例えば北上川流域や 阿武隈 ( あぶくま 川流域、 利根 ( とね 川流域や木曽川流域等々といった今日の大穀倉地帯は、この時期に生まれたのである。こうして、戦国時代末期から元禄時代にかけての短い時間に、日本の耕地面積は約3倍にも増えた。また、日本の人口も、この時期にほぼ3倍近くになったと考えられている>

 沖積平野は水田稲作農業に最適で、平和を回復するとともに農業生産力は飛躍的に拡大し、人口も急増したのである。ちょうどこの時期に、スペイン、ポルトガル、オランダなどから西欧の科学知識、土木技術が流れ込んだことも大きなプラスになった。

 平野部に城下町がつぎつぎと形成され、武士や農工商の人々が新しく開拓された平野部に広く移り住んだという。

 徳川家康は、敵味方の区別なく人材の登用に積極的だった。六郷用水の開削を 小泉 ( こいずみ 次大夫 ( じだゆう に委ねたのもその一例だろう。

 次大夫は駿河国富士郡小泉郷(現・富士宮市)の生まれで今川義元の旧臣だったが、富士山の雪解け水で氾濫を繰り返す土地柄だったため、治水工事に精通していたらしい。家康は次大夫を川崎・ 稲毛 ( いなげ の代官に任命し、多摩川下流の開発に当たらせたのである。

 慶長2年(1597)、次大夫は58歳になっていたが、そののち15年の歳月を費やして多摩川郡和泉村(現・狛江市)から導水し現在の世田谷、大田区の水田を潤す全長23.2kmに及ぶ六郷用水の開削に成功した。

 高柳が研究に復帰し、NHKと日本テレビがテレビ放送を開始したのは、昭和28年のことである。

(掲載号:08月07日号)