週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

人見よ 円融寺 釈迦堂

 建造物の文化財が多い碑文谷の円融寺境内で、飛び抜けての勝れ物は、国の重要文化財に指定されている釈迦堂である。黒仁王がニラミを利かす仁王門をくぐった先に、古色を帯びてはいるが、清楚な美しさを見せて建っている。

 14世紀末から15世紀初め頃の室町時代初期に造られた建物で、木造建築では23区内では最古といわれる。正面三間・横四間・唐様・単層・入母屋造りで、唐様の建築様式に日本の伝統美が巧みに取り入れられている。

 昭和27年、それまでの茅葺きの屋根を銅版葺きに変えるなどの大修理が行われた。そのとき、1つのエピソードが生まれた。

 屋根を解体したとき、屋根裏の奥から1枚の棟札が見つかった。棟札は棟上げや再建、修理に際して建築の由来や工匠の名前などを記して棟木に打ち付ける木札だが、釈迦堂のそれには「我手よし、人見よ」と墨書されていた。

 自分の名前は記さず、ただ腕前だけを見てほしいという堂を建築した職人の自信に満ちた一書である。これに対し、かねがね堂のみごとな仕事に感服していた修理請け負いの棟梁は「その手よし、我は見たり」と書いた応札を昔の棟札と一緒にして屋根裏に残したとう。

 今昔の建築家の心意気が触れ合うような話で、いずれ2枚の棟札を見つけるであろう後世の建築家は、どんな感想を持つだろう。

 それにしても、釈迦堂を建てたのはどんな人だったのだろうか。『江戸名所図会』は「本堂本尊は釈迦如来、脇士は文殊・普賢なり」とした後に、「里諺(りげん)に、今存する所の堂宇はの飛騨(ひだ)匠某(たくみそれがし))が作る所なりといへり」と書いている。

 やはり名前は不明である。恐らく、名工は名前を残すことには全く無頓着だったに違いない。

(掲載号:09月04日号)