週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
碑文谷 八幡宮 碑文石
東急目黒線西小山駅西方の立会川緑道の西端は、碑文谷八幡宮の参道に続いている。木立に囲まれた中に鎮座している同八幡宮の創建年代ははっきりしないが、旧碑文谷村の鎮守である。
『江戸名所図会』には「相伝ふ、畠山重忠の崇信せし御神なりといふ(神体は秘物なりと云ふ。或いは云ふ、束帯の銅像なりといへり)」とある。
畠山重忠は武蔵秩父の豪族で、源頼朝のために多くの戦功を挙げた豪勇の武将だった。篤実な人柄で人望もあったが北条氏と対立、同氏との闘いで討ち死にしてしまった。
『江戸名所図会』がいう秘物の神体は『新編武蔵風土記稿』などによると、重忠の守り本尊で、闘いのときに兜の飾り・前立てとして付けていた。それを重忠の討ち死に後、家臣がこの地に祀ったのが八幡宮の起源だという。
とすると、創建は13世紀初めと推定される。いずれにしろ歴史ある神社で、『東京都神社名鑑』によると、同八幡宮の社殿はそれぞれ永正8年(1511)、寛永8年(1631)、宝永元年(1704)、明治5年に再造営されたことが棟札によって分かっているという。
この社殿の右隣に「碑文石」といわれている高さ75cm、幅45cmほどの乳白色の石が保存されている。石の真ん中やや上方に大日如来、その左右に勢至菩薩と観音菩薩の意味を表す梵字がそれぞれ刻まれている。
『江戸名所図会』に「或人云ふ、八幡宮の西にあたる地は往古の鎌倉街道にして、路の傍に古碑ありしとなり。されどもいかなる故にや、この地の土民、鎮守八幡宮の社地へ埋蔵したりと」とある古碑ともいわれている。
形状から板碑の一種らしいが、建造年代は分からない。碑文谷の地名の起源をこれに求める説もある。
『江戸名所図会』には「相伝ふ、畠山重忠の崇信せし御神なりといふ(神体は秘物なりと云ふ。或いは云ふ、束帯の銅像なりといへり)」とある。
畠山重忠は武蔵秩父の豪族で、源頼朝のために多くの戦功を挙げた豪勇の武将だった。篤実な人柄で人望もあったが北条氏と対立、同氏との闘いで討ち死にしてしまった。
『江戸名所図会』がいう秘物の神体は『新編武蔵風土記稿』などによると、重忠の守り本尊で、闘いのときに兜の飾り・前立てとして付けていた。それを重忠の討ち死に後、家臣がこの地に祀ったのが八幡宮の起源だという。
とすると、創建は13世紀初めと推定される。いずれにしろ歴史ある神社で、『東京都神社名鑑』によると、同八幡宮の社殿はそれぞれ永正8年(1511)、寛永8年(1631)、宝永元年(1704)、明治5年に再造営されたことが棟札によって分かっているという。
この社殿の右隣に「碑文石」といわれている高さ75cm、幅45cmほどの乳白色の石が保存されている。石の真ん中やや上方に大日如来、その左右に勢至菩薩と観音菩薩の意味を表す梵字がそれぞれ刻まれている。
『江戸名所図会』に「或人云ふ、八幡宮の西にあたる地は往古の鎌倉街道にして、路の傍に古碑ありしとなり。されどもいかなる故にや、この地の土民、鎮守八幡宮の社地へ埋蔵したりと」とある古碑ともいわれている。
形状から板碑の一種らしいが、建造年代は分からない。碑文谷の地名の起源をこれに求める説もある。
(掲載号:09月18日号)
