週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

南北朝 悲劇の 兵庫島

 南北朝時代、南朝の復興に尽力した武将の新田義興(につたよしおき)が敵の謀略に落ちて無念の涙を飲みながら自刃したのが、多摩川の矢口(やぐち)の渡しである。

 義興は、鎌倉の北条氏を滅ぼした新田義貞の二男で、父亡きあと本拠地の新潟で力を蓄え、ついに足利勢が固める鎌倉攻略の態勢を整えた。義興を強敵と見た足利方の江戸遠江守と竹沢右京亮(うきょうのすけ)が一計を案じる。鎌倉攻めに加勢すると言って義興をおびき寄せ、正平13年(1358)10月10日、多摩川の矢口の渡しで義興一行を渡し舟に乗せる。

 このあたりは軍記物語『太平記』にも詳しく描写されている。あらかじめ舟底には2つの穴がくり抜いてあり、舟が川の真ん中に差しかかったところで、船頭が2つの栓を同時に引き抜き、そのまま川に飛び込んで逃げ去る。義興ら は重い兜、鎧で身を固めているので泳ぐこともできない。両岸から待ち伏せの軍勢が矢を射かける。もはやこれまでと主従は刺し違えて川に沈んでいくのである。

 東急多摩川線には矢口渡(やぐちのわたし)駅がある。隣接の武蔵新田(むさしにつた)駅(大田区矢口)の近くには義興を祀る新田神社があり、義興墳墓の地と伝えられている。もっとも、悲劇の舞台となった矢口の渡しは、上流の稲城(いなぎ)市矢野口だとする説もある。

 東急田園都市線二子玉川駅を降りて、多摩川の川岸に出ると、すぐ上流に緑に覆われた島がある。義興の従者の1人、由良(ゆら)兵庫助(ひょうごのすけ)の遺体が漂着したという説から、兵庫島(ひょうごじま)の名がある。遺体が上流から漂着したとすれば、稲城市の矢野口とする説も無視できない。いずれとも断定はできないが、この事件の記憶が強烈だったからこそ各地に伝説が生まれたのだろう。

 兵庫島はカイツブリ、サギなどの野鳥、ハヤ、ヤマベなどの川魚に恵まれた絶好の河川公園である。

(掲載号:10月09日号)