週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

玉川へ 2里半 江戸の旅

 清流と鮎。多摩川の風光と味は、江戸時代から多くの人を行楽に誘った。

 電車やマイカーの現代と違って、江戸の人たちはひたすら歩いた。よほどの事情がなければ駕籠や馬は使わない。幕末の玉川行楽の一例を、村尾嘉陵(かりよう)『江戸近郊道しるべ』に拾ってみよう。

 嘉陵は、徳川家御三卿のなかの清水家で御広敷用人(おひろしきようにん)(邸内奥向きの庶務責任者)という要職の武士だったが、なかなか健脚のウォーカーで、近郊に足を伸ばすと几帳面にメモを残すという記録魔の一面もあった。いつも日帰りの強行軍だが、綿密なメモのおかげで当時の近郊風景が浮かび上がってくるのである。

 天保2年(1831)陰暦9月3日(陽暦10月8日)、数えで72歳の嘉陵老人は、久しぶりの晴天を見て、二子(ふたご)の渡しに近い行善寺(ぎょうぜんじ)(現・世田谷区瀬田1-12-23)を訪ねることにする。

 朝飯を済ませ、午後9時ごろ九段の屋敷を出発する。赤坂、青山から渋谷を過ぎ、道端の小さな店で道を聞くと、「二子まで2里半(約10km)」という答えだった。手持ちの磁石を振ってみると、二子道(ふたごみち)午未(うまひつじ)(南南西)の方角だ。

 三軒茶屋、用賀を経て瀬田に入ると、点在する農家の前に季節の栗を茹でて器に盛ってある。欲しければ1皿4文を置く仕組みで、栗と銭が置き放しになっているが、里の子には盗む心もない。町に比べ、全く正直なものである。 

 こんな調子で行善寺に着き待望の絶景を心ゆくまで楽しみ、ちょうど昼になったので寺で茶をもらい、腰の弁当を摂るのである。嘉陵は帰途、九品仏(くほんぶつ)の浄真寺にお参りし、帰宅は午後8時になった。この日、7、8里(約30km)は歩いたと書いている。

 行善寺からの眺望は様変わりしているが、境内には往時の趣が残る。

(掲載号:10月16日号)