週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

細井広沢と 赤穂浪士 満願寺の額

 元禄15年12月14日、大石内蔵助は吉良邸討入を前に1通の声明文を用意した。「 浅野内匠頭家来口上(あさのたくみのかみけらいこうじょう)」と題するもので、われわれの行動は(ひとえ)に主君の仇、吉良上野介を討つことにあり、他にご迷惑を及ぼすつもりはないと宣言している。幕府をはじめ近隣に対する配慮だった。

 簡潔だが、誠忠の情のこもった文面である。内蔵助は山鹿素行、伊藤仁斎など当時の一流学者に学んだ文化人でもあった。その文面に堀部安兵衛が疑問を挟んだ。「ご家老、趣意に異論はまったくありません。しかし…」

 君父の(あだ)は共に天を戴かずとある。これは中国の『礼記(らいき)』には<父の讐>と出ている。勝手な書き換えだと世間の物笑いになるといけません。

 安兵衛といえば赤穂浪士のなかの青年行動隊長だが、やはり文武両道に秀でていた。元禄時代に江戸で随一の剣客といわれた堀内源太左衛門に学び、同門の親友に細井広沢(ほそいこうたく)がいた。広沢は名筆家として名高いが、古今の学にも明るい。内蔵助の命で、安兵衛はさっそく広沢に相談した。


 広沢の返事は明快だった。理義が一貫していれば、一語一語にこだわることはない、というのである。討入の声明文を外部に検討してもらう大石の度胸、それを承知の広沢の義侠には敬服するほかない。安兵衛は広沢を信じ、大石との往復書簡など関係の文書を預けたので、今も『堀部武庸(ほりべたけつね)(安兵衛の名)筆記』が残り、貴重な記録になっている。

 東急大井町線・等々力(とどろき)駅のすぐ北に満願寺(世田谷区等々力3-15-1)がある。戦国時代に吉良一族の世田谷吉良氏が再興した古刹だが、多摩川を愛して 玉川(ぎょくせん)とも号した広沢がここを墓所としたのも不思議な縁といえよう。山門に掲げる「致航山(ちこうざん)」の額は広沢の書、本堂の額は子息九皐(きゅうこう)の書である。

(掲載号:11月20日号)