週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

碑文谷は 碑文石か 檜物屋か

 目黒区の碑文谷という地名は、初見の人はなかなか正確に読めない。文政11年(1828)に成立した江戸幕府編纂の武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』の「碑文谷村」の項にはヒモンヤとルビがあって「碑文谷村は萱苅庄に属せり」の記述に続いてその由来について触れている。

 「村内鎌倉古街道の傍らに、梵字を刻せし古碑たてりしゆへに此名起れりと云、其碑70年前までも、存せしかど、(しばしば)祟をなせしとて、恐れて土中に埋めしとぞ、ゆへに其文字は傳へず、或は云昔忠玄と云法師、大卒塔婆に碑文をかきて此地に埋めしゆへなりと、何れか是なりや」

 文字を彫った石、つまり碑がある谷・くぼ地というので碑文谷という地名になったという碑文説である。

 『江戸名所図会』も「碑文谷八幡宮」の項で鎌倉街道にあった古碑を「いかなる故にや」八幡宮の社地に埋めたと記している他、大卒塔婆のことにも触れている。ただし、卒塔婆の碑文を書いたのは、八幡宮近くにある名刹円融寺の前身法華寺の中興開基といわれる日源上人とし、忠玄という僧の名は『江戸鹿子』に見られるとしている。

 こうした伝説の碑の正体は、今、碑文谷八幡宮に大切に保存されている「碑文石」といわれる板碑だとされている。

 これに対し「檜物屋説」がある。江戸時代以前の中世、この地には鎌倉街道が通っていて繁盛する法華寺があり、かなり開けていた。曲げ物を作る檜物職人が多く、それを売る檜物屋が並んでいたからとするものである。

 檜物屋が碑文谷になったというわけで「武蔵国ひものや郷中」とある古文書の存在や、「江戸図屏風」の「檜物屋法花寺」の記入から出た説である。他にも異説があるが、珍しい地名なので諸説が唱えられたのだろう。

(掲載号:11月27日号)