週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
徳冨蘆花 ボロ市の ルポ
西欧化を押し進めた明治の新政府は、明治5年に太陽暦の採用を決めた。旧暦では西洋との間に一か月も食い違いができ、困ることが多いと、明治5年12月3日を一足飛びに明治6年1月1日とした。だから、この年の12月は2日しかない。
政府は役人に対する12月分の給与をカットした。太陽暦の採用は財源難の政府の窮余の一策という説もあるほどだが、世田谷付近の住民も困惑した。12月が2日だけになってしまったので伝統の年の市を開くことができない。
『ボロ市の歴史』(世田谷区立郷土資料館)によると、臨時に11月25日に繰り上げて開かれたというが、さっぱり商売にならなかったらしい。『不如帰』や『自然と人生』などの作家、徳冨蘆花は明治40年に千歳村粕谷(現・世田谷区粕谷)に居を定め、身近の風物を細かく観察し『みみずのたはこと』を書いた。そのなかの「村の1年」に次のような説明がある。
<都近い此辺の村では、陽暦陰暦を折衷して一月晩れで年中行事をやる。(中略)2月には村の正月だ。松立てぬ家はあるとも、着物更えて長閑に遊ばぬ人は無い>
ボロ市が年2回の催行になったのは明治7年からで、やはり太陽暦採用が関係しているようである。蘆花は同じ文章でボロ市のルポもやっている。<あらゆる襤褸やガラクタをずらりと並べて、売る者も売る、買うものも買う、と唯驚かるゝばかりである>、まことに<世に無用のものは無い>と活況に驚嘆している。
農家日用の新しい品々だけでなく、古靴、古帽子、古らんぷ、古本、とりわけ草履の材料や継ぎ切れにする襤褸が人気商品だった。これは明治20年代からのことらしい。このため、古来の「市町」よりも「ボロ市」の俗称が一般化したという。
(掲載号:01月17日号)
